メリカ人が高い金を出して買うのであるが。
 彫刻部の列品は、もしか貰ったらさぞや困ることだろうと思うものが大部分であるが、工芸品の部には、もし沢山に金があったら買いたいと思うものが少しはある。
 来年あたりから試しに帝展の各室に投票函を置き、「いけない」と思う絵を観客に自由に遠慮なく投票をさせて、オストラキズムの真似をしたらどうかと思う。推賞する方の投票だと「運動」が横行して結果は無意味に終るにきまっているが、排斥する方の投票だと、その結果は存外多少の参考になるかもしれない。そうして最後に残った絵だけをもう一遍陳列してみたらどんなことになるか。これは試しに一度やってみる価値があるかもしれない。

      二 ヨーヨーとコリントゲーム

 ヨーヨーがすたれて、コリントゲームがいまだに残存している。
 ヨーヨーは力学的の玩具である。これの運動の解明は古典力学だけで間に合う。しかしコリントゲームの方には公算的統計的の要素が入り込む。前者では因果の連鎖が一筋の糸でつづいているが、後者では因果の中間に蓋然《プロバビリティ》の霧がかかっている。それで、前者では練習さえ積めばかなりの程度までは思いのままにあらゆる有様を再現することが出来るが、後者の方では二度と同じ結果を出すまでに何度試みを繰返さなければならないかを、確実に予言することが出来ない。
 それだからヨーヨーは生真面目で、人を緊張させる傾向があり、コリントはどこかとぼけていて人を笑わせる。そうして前者は個人的であり、後者は衆団的である。
 夏の頃、神田の夜店の中に交じってコリント台を並べて客を待っているおばさんやおじさんが数え切れないほどあった。こわい顔のおじさんや、浮かぬ顔をした小僧さんのところよりはやはり愛嬌のいいおばさんの台にお客が多くついているようである。鉄球をころがしているお客も、見物している人達も、番をしている商人も一処になって時々笑い出す。天下泰平の趣がある。ヨーヨーの緊張時代のあとにコリントゲームの弛緩《しかん》時代がめぐって来たものと見える。
 三原山投身者もこの頃減ったそうである。

      三 へリオトロープ

 よく晴れた秋の日の午後|室町《むろまち》三越前で電車を待っていた。右手の方の空間で何かキラキラ光るものがあると思ってよく見ると、日本橋の南東側の河岸に聳《そび》え立つあるビルディン
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