案内者
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)賽《さい》でも投げると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)往々|相容《あいい》れない

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)景色がいいと書いてある[#「書いてある」に傍点]
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 どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し詳しく具体的の事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を捜し出して読んでみる。そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後には、つまりいいかげんに、賽《さい》でも投げると同じような偶然な機縁によって目的の地をどうにかきめるほかはない。
 こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。そうして主要な名所旧跡をうっかり見落とす気づかいもない。
 しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初から賽をふって行く所をきめてしまう。あるいは偶然に読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。
 しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李《こうり》の中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
 しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。
 しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出す機会がある。
 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行をさしながら、「この窓から見ると景色がいいと書いてある[#「書いてある」に傍点]」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この見のがしてならない景色を充分に観賞する事ができた。
 私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時に、なんだかそこに名状のできない物足りなさあるいは一種のはかなさとでもいったような心持ちがするのを禁ずる事ができなかった。なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。
 ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには最新刊のベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学を尋ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり、名高い料理屋を捜しあてると貸し家札が張ってあったりした事もある。杜撰《ずざん》な案内記ででもあればそういう失敗はなおさらの事である。しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。
 それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。
 中学時代に始めての京都見物に行った事がある。黒谷《くろだに》とか金閣寺《きんかくじ》とかいう所へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分の什物《じゅうもつ》の品々の来歴などを一々説明してくれる。その一種特別な節をつけた口調も田舎者《いなかもの》の私には珍しかったが、それよりも、その説明がいかにも機械的で、言っている事がらに対する情緒の反応が全くなくて、説明者が単にきまっただけの声を出す器械かなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議に感ぜられた。その時に見た宝物や襖《ふすま》の絵などはもう大概きれいに忘れてしまっているが、その時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありありと残っている。
 その時に一つ困った事は、私がたとえばある器物か絵かに特別の興味を感じて、それをもう少し詳しくゆっくり見たいと思っても、案内者はすべての品物に平等な時間を割り当てて進行して行くのだから、うっかりしているとその間にずんずんさきへ行ってしまって、その間に私はたくさんの見るべき物を見のがしてしまわなければならない事になる。それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいものについての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しい事をしたという気の起こるのは免れ難かった。
 学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、いろいろの点で旅行案内記や、名所の案内者から得る知識に似たところがある。
 もし学校のようなありがたい施設がなくて、そしてただ全くの独学で現代文化の蔵している広大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするのであったら、その困難はどんなものであろうか。始めから終わりまで道に迷い通しに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もつかずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。
 しかし学校教育の必要といったような事を今さら新しくここで考え論じてみようというのではない。ただ学校教育を受けるという事が、ちょうど案内者に手を引かれて歩くとよく似ているという事をもう少し立ち入って考えてみたいだけである。
 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案内記に誌《しる》してない横道に隠れた貴重なものを見のがしてしまう機会ははなはだ多いに相違ない。そういう損失をなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記をひろく参照するといい。ただ困るのは、すでに在《あ》る案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。
 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない事はもちろんである。
 案内記が系統的に完備しているという事と、それが読む人の感興をひくという事とは全然別な事で、むしろ往々|相容《あいい》れないような傾向がある。いわゆる案内記の無味乾燥なのに反してすぐれた文学者の自由な紀行文やあるいは鋭い科学者のまとまらない観察記は、それがいかに狭い範囲の題材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなものに火をつける。そうして誌《しる》された内容とは無関係にそこに取り扱われている土地その物に対する興味と愛着を呼び起こす。
 専門の学術の参考書でもよく似た事がある。何かある題目に関して広く文献を調べようという場合にはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類のものはなくてならない重宝なものであるが、少し立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文や著書を見なければならない。それでこのような参照用の大部なものを、骨折って始めから終わりまで漫然と読み通し暗唱したところで、すでになんらかの「題目」を持っていない学生にとってはきわめて効果の薄い骨折り損になりやすいものである。またこんなものから題目を選み出すという事も、できそうでできないものである。これに反して個々の研究者の直接の体験を記述した論文や著書には、たとえその題材が何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受ける暗示は読む人の自発的な活動を誘発するある不思議な魔力をもっている。そうして読者自身の研究心を強く喚《よ》びさます。こういう意味からでも、自分の専門以外の題目に関するいい論文などを読むのは決して無益な事ではない。
 それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。

 名所旧跡の案内者のいちばん困るのは何か少しよけいなものを見ようとすると No time, Sir ! などと言って引っ立てる事である。しかしこれも時間の制限があってみれば無理もない事である。それでほんとうに自分で見物するには、もう一ぺんひとりで出直さなければならない事になる、ただその時に、例の案内者が「邪魔」をしてくれさえしなければいい。
 しかし案内者や先達《せんだつ》の中には、自己のオーソリティに対する信念から割り出された親切から個々の旅行者の自由な観照を抑制する者もないとは言われない。旅行者が特別な興味をもつ対象の前にしばらく歩を止めようとするのを、そんなものはつまらない[#「つまらない」に傍点]から見るのじゃないと世話をやく場合もある。つまる[#「つまる」に傍点]とつまらない[#「つまらない」に傍点]とが明らかに「相対的」のものである場合にはこれは困る。案内者が善意であるだけにいっ
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