はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。そうして丹波《たんば》の山奥から出て来た観覧者の目に映るような美しい影像はもう再び認める時はなくなってしまう。これは実にその人にとっては取り返しのつかない損失でなければならない。
このような人は単に自分の担任の建築や美術品のみならず、他の同種のものに対しても無感覚になる恐れがある。たとえばよその寺で狩野永徳《かのうえいとく》の筆を見せられた時に「狩野永徳の筆」という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴《かび》のはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない。
職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。それにはもちろん異常な努力が必要であるが、そういう努力は苦しい。それをしなくても今日には困らない。そこに案内者のはまりやすい「洞窟《どうくつ》」がある。
ニュールンベルグの古城で、そこに収集された昔の物すごい刑具の類を見物した事がある。名高い「|鉄の処女《アイゼルネユングフラウ》」の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌《ようぼう》をしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるような事はありませんか」と聞くと、なんとも返事しないでただ音を立てて息を吸い込んで、暗い顔をして目を伏せた。私はずいぶん残酷な質問をするものだと思ってあまりいい気持ちはしなかった。おそらくこの女も毎日自分の繰り返している言葉の内容にはとうに無感覚になっていたのだろう。それがこの無遠慮な男の質問で始めて忘れていた内容の恐ろしさと、それを繰り返す自分の職業の不快さを思い出させられたのではあるまいか。
これと場合はちがうが、われわれは子供などに科学上の知識を教えている時にしばしば自分がなんの気もつかずに言っている常套《じょうとう》の事がらの奥の深みに隠れたあるものを指摘されて、職業科学者の弱点をきわどく射通される思いがする事はないでもない。
案内者になる人はよほど気をつけねばならないと思う。
ナポリを見物に行ったついでに、ほど遠からぬポツオリの旧火口とその中にある噴気口を見に行った。電車をおりてベデカをたよりに尋ねて行こうとすると、すぐに一人の案内者が追いすがって来てしきりにすすめる。まだ三十にならないかと思われるあまり人相のよくない男である。てんで相手にしないつもりでいたがどこまでも根気よくついて来て、そして息を切らせながらしつこく[#「しつこく」に傍点]同じ事を繰り返している。それをしかりつけるだけの勇気のない私は、結局そのうるささを免れる唯一の方法として彼の意に従うほかはなかった。その結果は予想のとおりはなはだ悪かった。始め定めた案内料のほかに、いろいろの口実で少しずつ金を取り上げられて、そして案内者を雇っただけの効能はほとんどなかった。ただ一つのおもしろかったのは、麻糸か何かの束を黄蝋《きろう》で固めた松明《たいまつ》を買わされて持って行ったが、噴気口のそばへ来ると、案内者はそれに点火して穴の上で振り回した。そして「蒸気の噴出が増したから見ろ」と言うのだが、私にはいっこうなんの変わりもないように思われた。すると彼はそことはだいぶ離れた後方の火口壁のところどころに立ち上る蒸気をさして「あのとおりだ」という。しかし松明を振る前にはそれが出ていなかったのか、またどれくらい出ていたのか、まるで私は知らなかったのだから、結局この松明《たいまつ》の実験《エキスペリメント》は全然無意味なものに終わってしまった。しかしそういう飛びはなれた非科学的の「実験」がおそらく毎日ここで行なわれてそして見物人の幾割かはそれで納得するものだとすると、そういう事自身がかなり興味のある事だと思われた。
知識の案内者と呼ばれ、権威《オーソリティ》と呼ばれる人にはさすがにこんな人は無いはずである。それでは被案内者が承知しない。しかし名を科学に借りて専門知識のない一般公衆の目をくらますような非科学的実験を行なった者が西洋には昔からずいぶんあった。そのような場合には、ほとんどきまって、平生科学に対して反感のようなものをもっている一群の公衆、ことに新聞などによって既成科学の権威が疑われ、そのような「発見」に冷淡な学者が攻撃される。しかし科学者としては事がらの可能不可能
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