気象や地球物理に比べて地理の方は輪講にも講義にも出席者が多く気分がまるで変っていた。気象輪講会は何となく上品にのんびりしていたし、地球物理輪講会は生真面目でしかも家族的な気分であったが、地理の輪講会には何となく物々しい人間臭い気分があった。学者で同時に政治家らしいペンク教授の人柄がやはり反映しているような気もした。いつか、カナダのタール教授が来て氷河に関する話をしたときなど、ペンクは色々とディスクシオンをしながら自分などにはよく分らぬ皮肉らしいことを云って相手を揶揄《やゆ》しながら一座を見渡してにやりとするという風であった。
 ペンクの講義は平明でしかも興味あり示唆に富んだ立派な講義であると思われた。聴講者には外国人も多かったが外国人同士はやはり自然に近付きになりやすかった。英国人のオージルヴィ君や、ルーマニアのギリッチ君などとよく教室入口の廊下で立話をした。後者は今ベルグラードの観測所に居るが前者の消息は分らない。ドイツ学生の中にはずいぶん不真面目らしい茶目や怠け者も居て一体に何となく浮世臭い匂がこの教室全体に漂っているのを感じた。自分は幸いにここでも図書室を自由に開放してもらって、読書したりノートを取ったり、また河のメアンダーに関する小さな「仕事」をさせてもらったりした。ドイツの学者のアルバイテンという言葉の意味がここに一年半通って同学者のやり方を見聞している間に自ずから会得《えとく》出来たような気がした。一に根気二に根気で集輯した素材を煉瓦のように積んで行くのである。
 探険家シャックルトンがベルリンへ来たときペンクの私邸に招かれ、その時自分も御相伴《おしょうばん》に呼ばれて行った。見知らぬ令夫人を卓に導く役を云い付かって当惑した。その席でペンクは、本日某無名氏よりシャックルトン氏の探険費として何万マルクとかの寄附があったと吹聴した。その無名氏なるものがカイザー・ウィルヘルム二世であることが誰にも想像されるようにペンク一流の婉曲《えんきょく》なる修辞法を用いて一座の興味を煽《あお》り立てた。
 ペンクは名実共にゲハイムラートであって、時々カイザーから呼立てられてドイツの領土国策の枢機《すうき》に参与していたようである。今日はカイザーに呼ばれているからと云ったような言葉を何遍も聞いたような記憶がある。
 いつか海洋博物館での通俗講演会でペンクが青島《チンタオ》の話をしたとき、かの地がいかに地の利に富むかということを力説し、ここを占有しているドイツは東洋の咽喉《いんこう》を扼《やく》しているようなものだという意味を婉曲に匂わせながら聴衆の中に交じっている日本留学生の自分の顔を見てにこにこした。後年欧洲大戦の結果として青島がドイツの手を離れたときに何となくその時の講義が思い出された。
 海洋博物館の前を西へ高架線に沿うて行くと停車場の前をぬけてスプレーの河岸へ出る。河岸に沿うて二、三町先のマルシャル橋の南詰の角に物理教室がある。ここで聴いたキービッツという若いプリバート・ドチェントの空中電気の講義は始め十人くらいの聴講者がだんだん減ってとうとう二、三人になってしまった、そのせいか数時間でおしまいになった。物理学輪講会はルーベンスが座長であったがプランクもほとんどいつも欠かさず出席してこの集会の光彩を添えていた。老人株ではカナル線の発見者ゴールトシュタインや、ワールブルヒなどがおり、若手ではゲールケ、プリングスハイム、ポールなどもいた。日本人では自分の外に九州大学の桑木さんもある期間出席されたように思う。
 鼻眼鏡でぬうっと澄ましていて、そうして何でも実によく知っているルーベンスの傍に、無邪気で気軽く明るいプランクがいて、よくわれわれでも知っているような実験的の事実を知らないで質問する、若い連中が得意になってそれを説明するのを感心して謹聴していた。純真な性格にもよるであろうが、しかし一方で誰にも負けないだけの長所をもち、そうしてそれを自覚している人でなければこれほど無邪気にはなれまいと思ったことであった。後年アインシュタインに対する反ユダヤ人運動でひどく器量を悪くしたゲールケはやはり一座の中でいちばん世間人らしいところがあった。若くて禿頭の大坊主で、いつも大きな葉巻を銜《くわ》えて呑気《のんき》そうに反りかえって黙っていたのはプリングスハイムであった。イグナトフスキーとかいうポーランド人らしい黒髪|黒髯《こくぜん》の若い学者が、いつか何かのディスクシオンでひどく興奮して今にも相手につかみかかるかと思われてはらはらしたことがあった。ワールブルヒは腎臓でもわるいかと思われるように顔色が悪く肥大していて一向に元気がなかったが、ゴールトシュタインは高年にかかわらず顔色も若々しく明るい上品な感じのする人であった。プランクはこの人に対してい
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