つもわざとらしからぬ敬意を表しているように見受けられた。
 物理の輪講会にはやはりまた特別の雰囲気があるのを面白いと思った。自分の出席した四つのコロキウムのそれぞれの雰囲気は学科の性質から来る特徴もあるにはあるであろうが結局はその集会を統率する中心人物の人柄そのものによって濃厚に色づけられているのであった。
 次の冬学期には上記の先生方の外に、ヘルメルトの「地球の形」やオイゲン・マイヤーの「航空に関する応用力学」などを聴いた。ヘルメルトは赭《あか》ら顔で眼をしょぼしょぼさせた何となく田舎爺のような感じのする、しかしどこかなかなか喰えないような気のする先生であったが、しかしやはり一とかどのえらい学者のように思われた。マイヤーの講義はザクセン訛《なま》りがひどく「小さい」をグライン「戦争」をグリークという調子で、どうも分りにくくて困った。
 ネルンストの「物理化学」もひやかしに一、二度聴いたことがあったが、西洋人にしては脊の低いずんぐりした体格で、それが高い聴講席をふり仰ぎながら活溌に手を振り身体を動かし頸を曲げてゼスチュアの賑やかな講義をして見せた。ポアンカレのいわゆるゲオメーター型の学者と思われた。聴講者はいつも教場に溢れていた。
 講義や輪講の外に色々の見学があった。ヘルマン教授の許《もと》にいた連中とリンデンベルクの高層気象台へ行ったときはベルゾン博士が案内の労をとった。この人はジューリングと一緒に気球で成層圏の根元に近づき一時失神しながらも無事に着陸したという経験をもっていて、搭乗気球としての最高のレコードの保持者であった。鉄道幹線から分れた田舎廻りの支線、いわゆるクラインバーンの汽車の呑気なのに驚いたのはこの時である。東京の市電よりのろいくらいの速度で蛇のようにうねった線路を汽笛の代りにチャン/\/\と絶えずベルを鳴らして進むのである。ポンチ絵のクラインバーンにはきっと豚や家鶏が鉄路の上に遊んでいるように描いてある、その通りである。ゲハイムラート以下皆往復共に四等客車に収まって行った。客車の中は白塗りのがらんどうで、ただ片側の壁に幅の狭い棚のような腰掛があるだけである。乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったままでゆられながら、しきりに大気の物理を論じ合っていた。
 地理学教室ではペンクや助手のベーアマンが引率して近郊の地質地理見学に出掛けた。ペンクの足の早いのとベーアマンの口の早いのとに悩まされたが、ずいぶん色々とためにはなった。
 学生の有志の見学団で毎週のようにいろいろの見学参加募集をする。その広告が大学の玄関に貼り出される。当時は世界第一であったナウエンの無線電信発信所を見物したのもこの見学団の一員としてであった。テレフンケン・システムの大きな蛇のようなスパークがキュンキュンと音を立ててひらめいては消えるのを見た。同じ団体にはいってヘッベルの劇場の楽屋見学をしたときは、奈落《ならく》へ入り込んでモーターで廻わす廻り舞台を下から仰いだり、風の音を出す器械を操縦させてもらったりした。音を出すのは器械だが、音を風音らしくするのはやはり人間の芸術らしいと思われた。
 三学期一年半のベルリン大学通いは長いようでもありまた短いようでもあった。たいそう利口になったようでもありまた馬鹿になったようにも思われた。引上げてゲッチンゲンへ移るときはさすがに名残惜しい気がするのであった。
 マルシャル橋や王宮橋から毎日のように眺め見下ろしたスプレーの濁り水に浮ぶ波紋を後年映画「ベルリン」の一場面で見せられたときには、往年の記憶が実になまなましく甦《よみがえ》って来るのを感じたのであった。[#地から1字上げ](昭和十年五月『輻射』)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
初出:「輻射」
   1935(昭和10)年5月
※底本編集時に、亀甲括弧付きで以下の箇所に添えられた注は、削除しました。
 「Wollen Sie dort anschliessen ?〔後に続きますか〕」
 「D. Berolini d. 19. mens. V anni MDCCCCIX〔ベルリン、一九〇五年五月十九日〕」
 「Na ! Sehen Sie mal zu.〔まあみててごらん〕」
 「Sehrgemeiner Kerl〔大凡人〕」
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
2009年9月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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