た。黒板へ書いている数式が間違ったりすると学生が靴底でしゃりしゃりと床をこするので教場内に不思議な雑音が湧き上がる。すると先生は「ア、違いましたか」と云って少しまごつく。学生の一人が何か云う。「御免なさい」と云ってそれを修正する。その先生の態度がいかにも無邪気で、ちっとも威張らず気取らないのが実に愉快で胸がすくようであった。
プランクの明るい感じと反対にアドルフ・シュミット教授は何となく憂鬱な感じのする人であった。いつも背広の片腕に黒い喪章を巻いていたような気がする。しかし実に頭のいい先生だと思って敬服していた。言葉は自分には少し分りにくいドイツ語であったがその講義は簡潔でしかも要を得た得難い良い講義だと思われた。大事なしかもかなり六かしい事柄の核心を平明にはっきり呑込ませる術を心得ているようであった。結局先生自身がその学問の奥底まではっきり突きとめて自分のものにしてしまっているせいだろうと思われた。日本の大学でもこうした講義がいちばん必要であろうと思われたが少なくも自分等の学生時代には高等学校と大学のコースの中間にこういうコースが抜けていたような気がする。それはとにかくシュミット教授についてただ一つ可笑《おか》しかった事は、先生が英国の数理物理学の大家 Love のことをローフェと発音していたことである。
地球物理談話会もほんの五、六人の仲間であったが、その中にまだ若いコールシュッター氏も交じっていた。地理教室の図書の管理をしていた、オットー・バシンという人も同じ仲間であったがこの人は聴講に身が入って来ると引切りなしに肩から腕を妙に大業《おおぎょう》に痙攣させるので、隣席に坐るとそれが気になって困った。あんまり勉強し過ぎて神経を痛めているのではないかという気がした。図書の管理者などはどこでも学生には煙たがられると見えて、いつか同席したクナイペの席上における学生の卓上演説で冗談交じりにひどくこき下ろされていたが、当人は Sehrgemeiner Kerl などという尊称を捧げられても平気で一緒に騒いでいる面白い人であった。
大学講堂の裏の|橡の小森《カスタニーンウェルドシェン》をぬけて一町くらいのゲオルゲン街の一区劃に地理教室と海洋博物館とが同居していた。地理のコロキウムはここで行われ、次の二学年を通じて聴いたペンクの一般地理学の講義もここの講堂で授けられた。
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