葉をどなってくれるので、その度に地獄で仏に会ったような気がするのであった。
いつかノールウェーのビェルクネス教授が来てこの輪講会の席上で同教授一流の気象学を講じたときたいそう面白いと思って感心したが、列席のドイツ気象学者たち誰一人感心したように見えなかった。ビ教授はそれから後にアメリカへ渡ってかの地でかの著明な大著を刊行したのである。小国の学者になるものではないという気がしたのはあの時であった。
ヘルマンは古典に通じていて、気象の講義にも色々古典の引用が出て来た。いつか私邸に呼ばれたときにその自慢の豊富な書庫を見せてもらったことがあったが、その蔵書の一部が教授の死後、わが中央気象台に買取られて保存されている。
ヘルマン教授には三学期通じてずっと世話になって特別の優遇を受けたような気がしていた。二十余年の今日でもこの先生の顔をありあり思い出すことが出来てなつかしい。
ヘルマンの教室を出て右を見ると河向いにウィルヘルム一世記念碑のうしろの胸壁の裏側が見える。河岸に沿うて二町くらい歩くと王宮橋《シュロースブリュッケ》の西詰に出る。それを左へ曲るとウンテルデンリンデンですぐ右側の角《かど》がツォイクハウス、次が番兵屯所、その次が大学である。物々しい番兵の交代はベルリン名物の一つであったが、実際いかにも帝政下のドイツのシンボルのように花やかでしかもしゃちこばった感じのする日々行事であった。この花やかにしゃちこばった気分がドイツ大学生特にいわゆるコアー学生の常住坐臥《じょうじゅうざが》を支配しているように思われるのであった。
大学の玄関の左側にはちょっとした売店があって文具や、それから牛乳パンくらいを売っていたような気がする。オペラ、芝居、それから学生見学団のビラなどが貼ってあった。十時頃にはよく玄関でシンケン・ブロートの立喰いをしながらそんなビラを読んでいる連中がいた。林檎の皮ごとぼりぼり※[#「契」の「大」に代えて「歯」、第4水準2−94−80]《かじ》り歩いている女学生も交じっていた。
プランクやシュミットの講義はここで聴いた。プランクの講義も言葉が明晰で爽やかで聞取りやすい方であった。第一回の講義の始めに、人間本位の立場から物理学を解放すべきことや物理的世界像の単一性などに関する先生の哲学の一とくさりを聞かせた。綺麗に禿げ上がった広い額が眼について離れなかっ
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