ジャーナリズム雑感
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瀑布《ばくふ》のごとく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)撤《ま》き[#「撤き」はママ]広げ、
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いつかある大新聞社の工場を見学に行ってあの高速度輪転機の前面を瀑布《ばくふ》のごとく流れ落ちる新聞紙の帯が、截断《せつだん》され折り畳まれ積み上げられて行く光景を見ていたとき、なるほどこれではジャーナリズムが世界に氾濫《はんらん》するのも当然だという気がしないではいられなかった。あまり感心したために機械油でぬらぬらする階段ですべってころんで白い夏服を台無しにしたことであった。
現代のジャーナリズムは結局やはり近代における印刷術ならびに交通機関の異常な発達の結果として生まれた特異な現象である。同時に反応的にまたこれらの機関の発達を刺激していることも事実であろうが、とにかく高速度印刷と高速度運搬の可能になった結果としてその日の昼ごろまでの出来事を夕刊に、夜中までの事件を朝刊にして万人の玄関に送り届けるということが可能になった、この事実から、いわゆるジャーナリズムのあらゆる長所と短所が出発するのであろう。
ジャーナルという言葉には昔からいろいろな意味があることは字引きを見るとわかるが、ともかくも「日々」という意味から出て、それから日刊の印刷物、ひいてはあらゆる定期的週期的刊行物を意味することになったのだそうである。そういう出版物を経営し、またその原稿を書いて衣食の料として生活している人がジャーナリストであり、そういう人の仕事がすなわちジャーナリズムだとある。手近な字引きで引いたところではたったこれだけの意味しか書いてないのである。しかしきょうこのごろ日本でいわゆるジャーナリズムという言葉には、これ以外にいろいろ複雑な意味や、余味や、後味や、またニュアンスやがあってなかなか簡単に定義しひと口に説明することはできないようである。人に聞いてみても人によっていろいろと多少は解釈がちがう、のみならずまた同一人でも場合によっていろいろちがった意味にこの言葉を使うことがあるようである。文章の中に出現しているのでも前後関係で意味や価値にずいぶん大きな開きがあるようである。誠につかまえどころのない化け物のようなものであるが、ともかくもいわゆるジャーナリズムと称する「もの」があることだけは確実な事実である。ただ頭としっぽがどうもはっきりつかまえにくいだけである。このつかまえにくい頭としっぽをつかまえようというのではないが、世間にうとい一学究の書斎のガラス戸の中からながめたこの不思議な現象のスケッチを心覚えに書きとめておこうというのである。
ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々《きんきん》数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末《てんまつ》を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
この不可能事を化して可能にする魔術師の杖《つえ》は何かと調べてみると、それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。
殺人事件というものが古来一つもなかったらどうにもならない話であるが、幸か不幸か昔からありとあらゆる種類や型式の殺人事件の数が実におびただしい多数に上っており、そうしてそれらの一つ一つについてはまた実にいろいろの記録が残っている。古い昔から物語や小説や講談に、どこまでがほんとうでどこまでがうそかはわからぬようなものばかりではあるがとにかく記録が多数に残存し、われわれは知らず知らずそういうものに習熟していつのまにか頭の中にいろいろな殺人事件の類型を作り上げしまいこんでいるのである。それで今日ただ今眼前に一つの事件が起こったとき、その事件の内容の一端だけを知れば、それだけのわずかな資料によって当該事件がおよそどの型に属するかという漠然《ばくぜん》たる見当をつけることができるように、そういう準備がいつでもできているのである。その見当が当たっているか狂っているかは別問題であるが、見当をつけ得られるということが肝心の問題である。そこで某殺人事件の種取りを命ぜられた記者は現場に駆けつけて取りあえずその材料を大急ぎでかき集めた上で大急ぎでそれを頭の中のカタログ箱の前に排列してそうしてさし当たっていちばんよいはまりそうな類型のどれかにその材料をはめ込んでしまう。そうするとともかくもそこに一つのもっともらしい殺人物語ができあがる。もちろん事実の真相とどれだけかけ離れているかはこの際問題にしている暇はないので、ただいかにももっともらしくその場限りのつじつまが合っているということが大切なのである。さて、こういう記事を読む読者のほうの頭の中にもやはり同じ物語や小説やから収集したあらゆる類型がちゃんと用意されてあるのだから、新聞の類型的描写が自然にぴったりとこっちの持参の型のどれかにはまり整合する。従ってそれで完全に納得し、満足し、そうして自分では容易にできないのを他人のしてくれた殺人のセンセーションを享楽することができるのである。それがたとえ事実とどれほど離反していても、そんなことは元来加害者にも被害者にも縁故のない赤の他人の一般読者にはどうでもよいのである。「どこかに人殺しがあった」という事実だけが正確でうそでなければ、それ以外の間違いについて新聞社に苦情を持ち込むほど物ずきな読者はまれであろうと思われる。真相が少しわかりかけるころには読者も記者ももうきれいに忘れているのであろう。
そうはいうものの、同じ事件に関する甲乙二つの新聞の記事が、一つ一つ別々に見れば実にもっともらしくつじつまが合っているのに、両方を比較してみるとまるで別の事件のように思われるほどかけ違ったり事がらが反対になったりしている場合も決して少なくはないので、そういう時にはさすが楽天的なわれわれ読者もいくらかの不安と不満を感じないわけにはゆかないようである。
昔の新聞にはずいぶんおもしろい例が多かった。心中者の二人が死ぬ前に話し合った言葉などがさもそばで速記者が立ち聞きでもしていたかのように記録されていたりしたものである。それが近松《ちかまつ》や黙阿弥《もくあみ》張りにおもしろくつづられていたものである。これは実に愉快な読み物であったが、さすがにこのごろはそういうのは、少なくも都下の新聞にはまれなようである。しかし、本質的にはこれと同様な記事は今でも日々の新聞に捜せばいくらでも発見されるのである。
ある役所で地方技術官の集合があって、その第何日目かに大臣が出席して演説する予定になっていたところ、当日さしつかえができて大臣は欠席した。しかしその日の夕刊を見ると大臣がちゃんと出席して滔々《とうとう》と演説をしたことになっていた。
ある若い学者がある日ある学会である論文を発表したその晩に私の宅《うち》へ遊びに来てトリオの合奏をやっていたら、突然某新聞記者が写真班を引率して拙宅へ来訪しそうして玄関へその若い学者T君を呼び出し、その日発表した研究の要旨を聞き取り、そうしてマグネシウムの閃光《せんこう》をひらめかし酸化マグネシウムを含んだ煙を玄関の土間に残して引き上げて行った。翌朝の新聞に宅の下手《へた》な合奏の光景が暴露されているかと思って読んでみると「……同学士をH町の自邸に訪《と》えば」うんぬん、とあって、ちゃんとそのT氏の自宅においてT氏と会談したことになって記述されていたのである。
この二つの実例から見ても新聞記事にはちゃんとした定型が確立されていて、いかなる場合にでもそれを破ることが禁ぜられているらしく思われるのである。自分らのようなつむじ曲がりの読者にとっては、むしろ来るはずの大臣がその日来なかったという偶然の個別現象に興味があり、また論文を発表したある若い学者がちょうどその晩よそへ遊びに行ってそこで合奏をやっていた事実に意義を認めるのであるが、それを事実有りのまま書いたのでは、ジャーナリズムの鉄則に違反するものと見える。こういう事実を初めて発見してひどく感心してしまったことがあったのである。
このジャーナリズムの一相と見らるる「事実の類型化」はある意味では確かにうそをつくことであるが、しかしまたよく考えてみると、これは具体的個別から抽象され一般化された規準的事実の記述だと解釈されないこともない。
物理学の初歩の教科書を見ると、地球重力による物体落下の加速度は毎秒毎秒九・八メートルであると書いてある。しかしデパートの屋上から落とした一枚の鼻紙は決してこの方則には従わないのである。重力加速度に関する物理の方則は空気の抵抗や風の横圧や、偶然の荷電や、そんなものの影響はぬきにして、重力だけが作用する場合の規準的の場合を捕えて言明しているのである。そうしてまた、加速度の数値を五けた六けたまでも詳しく云為《うんい》する場合には、実測加速度から規準加速度を導出するためにいろいろさまざまの「補正《コレクション》」を要するのである。
これと同じように、新聞記事のうそも一種の「補正」と見れば見られないこともないような場合もたしかにありそうである。ただ不幸にしてこの場合には物理学の場合のように確実な物理の方則に準拠した「補正」の代わりに、個々の記者のいわゆる常識による類型化の主観的方便によるよりほかに一つもたよりになるような根拠がないからいささか心細いと言わなければならない次第である。
セザンヌがりんごを描くのに決して一つ一つのりんごの偶然の表象を描こうとはしなかった、あらゆるりんごを包蔵する永遠不滅のりんごの顔をカンバスにとどめようとして努力したという話がある。科学が自然界の「事実」の顔を描写するのはまさにかくのごとき意図によるものであろう。新聞記者が新聞紙上に日々の出来事を記載するにこの意図があるかどうかは明らかでないが、もしそういう意図があってそうしてそれを実行し成就しようとするならば新聞記者というものは、セザンヌやまたすべての科学者を優に凌駕《りょうが》すべき鋭利の観察と分析の能力を具備していなければならないことと思われるのである。新聞記者になるのもなかなかたいへんなことである。
翻って考えてみると、科学者自身の間にもまたこのジャーナリズムのそれのような類型的の見方をする傾向が多分に存在している。従来用い古した解析的方法に容易にかかるような現象はだれも彼も手をつけて研究するが、従来の方法だけでは手におえないような現象はたとえ眼前に富士山のようにそびえていてもいっさい見て見ぬふりをしているという傾向がたしかにあるのである。しかし、だれか一人のパイオニアーがその現象に着眼して山開きのつるはしをふるって登山道がつき始めると、そうすると、始めて我れも我れもとそのふもとに押しかけるようになるのである。これも科学的ジャーナリズムの発達のおかげで世界じゅうの学者の研究が迅速に世界じゅうの学者の机上に報道されるからである。三原山《みはらやま》投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えているような余裕はないのみならず、三原山時代に浅間《あさま》へ行ったのでは「新聞に出ない」のである。
このように、新聞は
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