だく人はかなりに多いようであるが結局みんなあきらめるよりほかはないようである。雨や風や地震でさえ自由に制御することのできない人間の力では、この人文的自然現象をどうすることもできないのである。この狂風が自分で自分の勢力を消し尽くした後に自然になぎ和らいで、人世を住みよくする駘蕩《たいとう》の春風に変わる日の来るのを待つよりほかはないであろう。
 それにしても毎日毎夕類型的な新聞記事ばかりを読み、不正確な報道ばかりに眼をさらしていたら、人間の頭脳は次第に変質退化《デジェネレート》して行くのではないかと気づかわれる。昔のギリシア人やローマ人はしあわせなことに新聞というものをもたなくて、そのかわりにプラトーンやキケロのようなものだけをもっていた。そのおかげであんなに利口であったのではないかという気がしてくるのである。
 ひと月に何度かは今でも三原山《みはらやま》投身者の記事が出る。いったいいつまでこのおさだまりの記事をつづけるつもりであるのかその根気のよさにはだれも感心するばかりであろう。こんな事件よりも毎朝太陽が東天に現われることがはるかに重大なようにも思われる。もう大概で打ち切りにしてもよさそうに思われるのに、そうしないのは、やはりジグスとマギーのような「定型」の永久性を要求する大衆の嘱望によるものであろう。しかし、たまには三原山記事を割愛したそのかわりに思い切って古事記《こじき》か源氏物語《げんじものがたり》か西鶴《さいかく》の一節でも掲載したほうがかえって清新の趣を添えることになるかもしれない。毎日繰り返される三原山型の記事にはとうの昔にかびがはえているが、たまに眼をさらす古典には千年を経ても常に新しいニュースを読者に提供するようなあるものがあるような気もする。きのうのうそはきょうはもう死んで腐っている。それよりは百年前の真のほうがいつも新しく生きて動いているのである。
 スコットランドの湖水に怪物が現われたというのでえらい評判であった。しかし現代のジャーナリズムは、まだまだ恐ろしいいろいろの怪物を毎朝毎夕製造しては都大路から津々浦々に横行させているのである。そうして、それらの怪物よりもいっそう恐ろしくもまた興味の深い不思議な怪物はジャーナリズムの現象そのものであるかもしれない。
 しかし、象牙《ぞうげ》の塔のガラス窓の中から仮想ディノソーラス「ジャーナリズム」の怪奇な姿をこわごわ観察している偏屈な老学究の滑稽《こっけい》なる風貌《ふうぼう》が、さくら音頭の銀座《ぎんざ》から遠望した本職のジャーナリストの目にいかに映じるかは賢明なる読者の想像に任せるほかはないのである。
[#地から3字上げ](昭和九年四月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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