ゴルフ随行記
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)駒込《こまごめ》から

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)赤羽|界隈《かいわい》の変り方

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和九年八月『専売協会誌』)
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 ずっと前からM君にゴルフの仲間入りをすすめられ、多少の誘惑は感じているが、今日までのところでは頑強に抵抗して云う事を聞かないでいる。しかしとにかく一度ゴルフ場へお伴をして見学だけさせてもらおうということになって、今年の六月末のある水曜日の午前に二人で駒込《こまごめ》から円タクを拾って赤羽《あかばね》のリンクへ出かけた。空梅雨《からつゆ》に代表的な天気で、今にも降り出しそうな空が不得要領に晴れ、太陽が照りつけるというよりはむしろ空気自身が白っぽく光り輝いているような天候であった。
 震災前と比べて王子《おうじ》赤羽|界隈《かいわい》の変り方のはげしいのに驚いた。近頃の東京近郊の面目を一新させた因子のうちで最も有効なものと云えば、コンクリートの鋪装道路であろうと思われる。道路に土が顔を出している処には近代都市は存在しないということになるらしい。
 荒川放水路の水量を調節する近代科学的|閘門《こうもん》の上を通って土手を数町川下へさがると右にクラブハウスがあり左にリンクが展開している。
 クラブの建物はいつか覗《のぞ》いてみた朝霞《あさか》村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場にでもありそうなインテリ気分のものである。休憩室の土間の壁面にメンバーの名札がずらりと並んでいる。ハンディキャップの数で等級別に並べてあるそうだが、やはり上手な人の数が少なくて、上手でない人の数が多いから不思議である。黒板に競技の得点表のようなものが書いてある。一等から十等まで賞が出ている。これなら楽しみが多いことであろう。賞品は次の日曜日に渡しますとある。人間いくら年をとっても時には子供時代の喜びを復活させる希望を捨てなくてもいいのである。
 M夫人が到着したのでそろそろ出掛ける。
 一体の地面よりは一段高い芝生の上に小さな猪口《ちょこ》の底を抜いて俯伏《うつぶ》せにしたような円錐形の台を置いて、その上にあの白い綺麗なボールを載せておいて、それをあのクラブの頭でひっぱたくと一種独特の愉快な音がする。飛んで行った球がもう下り始めるかと思う頃に却《かえ》ってのし上がって行ってそれから落ちることがある。夫人の球が時々途中から右の方へカーヴを描く。球がそれて土手の斜面に落ちると罰金だそうである。
 河畔の蘆《あし》の中でしきりに葭切《よしきり》が鳴いている。草原には矮小《わいしょう》な夾竹桃《きょうちくとう》がただ一輪真赤に咲いている。綺麗に刈りならした芝生の中に立って正に打出されようとする白い球を凝視していると芝生全体が自分をのせて空中に泛《うか》んでいるような気がしてくる。日射病の兆候でもないらしい。全く何も比較の尺度のない一様な緑の視界はわれわれの空間に対する感官を無能にするらしい。
 途中から文科のN君が一緒になった。三人のプレイが素人目《しろうとめ》に見てもそれぞれちゃんとはっきりした特徴があって面白い。クラブと球との衝撃によって生ずる音の音色まで人々で違うような気がするのである。科学者のM君は積分的効果《インテグラルエフェクト》を狙って着実なる戦法をとっているらしく、フランス文学のN君はエスプリとエランの恍惚境を望んでドライブしているらしく、M夫人の球はその近代的闊達と明朗をもってしてもやはりどこか女性らしいやさしさたおやかさをもっているように見えた。口の悪いN君がM夫人の球を「どうも右傾だな」と云ったが間もなくN君自身の球が右傾して荒川の水にその姿を没した。夫人の胸中も自ずから平らかなるを得たようである。
 キャディが雲雀《ひばり》の巣を見付けた。草原の真唯中に、何一つ被蔽物《ひへいぶつ》もなく全く無限の大空に向って開放された巣の中には可愛い卵子が五つ、その卵形の大きい方の頂点を上向けて頭を並べている。その上端の方が著しく濃い褐色に染まっている。その色が濃くなるとじきに孵化《ふか》するのだとキャディがいう。早くかえらないと、万一誰かの右傾した球が落ちかかって来れば、この可愛い五つ生命の卵子は同時につぶされそうである。巣は小さな笊《ざる》のような形をしていて、思いの外に精巧な細工である。これこそ本能的母性愛の生み出した天然の芸術であろう。
 荒川が急に逆様《さかさま》に流れ出したと思ったら、コースがいつの間にか百八十度廻転して帰り路になっていた。
 キャディが三人、一人はスマートで一人はほがらかな顔をしているがい
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