イタリア人
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)用達《ようた》しに出掛けた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今日|七軒町《しちけんちょう》まで
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)耳を※[#「奇+支」、第4水準2−13−65]《そばだ》てさせる
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つかまえよう/\としていた。
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今日|七軒町《しちけんちょう》まで用達《ようた》しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町《あいぞめちょう》を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだかなつかしいような気がした。黒田が此処《ここ》に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染《なじみ》ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎《うと》くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却《かえ》って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の二階は何となくなつかしい、昔の香がする。二階と言って別に眺望が佳いのでもなければ、座敷が綺麗だという訳でもない。前にはコケラ葺《ぶき》や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎる。右の方に少しばかり空地があって、その真上に向ヶ岡《むこうがおか》の寄宿舎が聳えて見える。春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫色に浮き出して見える時などは、これが一つの眺めになったくらいのものである。しかし間近く上野をひかえているだけに、何処《どこ》か明るい花やかなところもあった。花の時分などになると何となく春のどよみが森の空に聞えて窓の下を美しい人の群が通る事もあった。欄干にもたれて何かしんみりした話でもしている時、程近い時の鐘が重々しいうなりを伝え伝えて遠くに消えることもあった。
いったい黒田は子供の時分から逆境に育ってずいぶん苦しい思いをして来た男だけに世間に対する考えもふけていて、深い眼の底から世の中を横に睨んだようなところがあった。観察
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