根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な時と空間の概念の中に潜伏している事に眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間を取って捨てて、新しい健全なものをその代りに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈《びょうそう》はひとりでに綺麗に消滅した。
 病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際《てぎわ》は第二のえらさでなければならない。
 しかし病気はそれだけではなかった。第一の手術で「速度の相対性」を片付けると、必然の成行きとして「重力と加速度の問題」が起って来た。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の祖先から二千年来使い馴れたユークリッド幾何学では始末が付かなかった。その代りになるべき新しい利器を求めている彼の手に触れたのは、前世紀の中頃に数学者リーマンが、そのような応用とは何の関係もなしに純粋な数学上の理論的の仕事として残しておいた遺物であった。これを錬《きた》え直して造った新しい鋭利なメスで、数千年来人間の脳の中にへばり付いていたいわゆる常識的な時空の観念を悉皆《しっかい》削り取った。そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどうなるか分らないが、ともかくも今まで片側だけしか見る事の出来なかった世界は、これを掌上に置いて意のままに任意の側から観る事が出来るようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破する事によって現出された客観的実在は、ある意味で却って絶対なものになったと云ってもよい。
 この仕事を仕遂げるために必要であった彼の徹底的な自信はあらゆる困難を凌駕《りょうが》させたように見える。これも一つのえらさである。あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えな
前へ 次へ
全14ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング