〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。
ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇《ちゅうちょ》していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘《しょうへい》した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。
ベルリン大学にける彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅《うち》へ帰ると世界中の学者や素人《しろうと》から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別|厭《いや》な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。
彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇《むやみ》な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさ
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