れるくらいだそうである。この人気に対して一種の不安の色が彼の眉目の間に読まれる。のみならず「はやりものだな」という言葉が彼の口から洩れた。しかしこれは悪く取ってはいけない、無理のないところもあると著者が弁護している。
それから古典教育に関する著者の長い議論があるが、日本人たる吾々には興味が薄いから略する事にして、次に女子教育問題に移る。
婦人の修学はかなりまで自由にやらせる事に異議はないようだが、しかしあまり主唱し奨励する方でもないらしい。
「他の学科と同様に科学の方も、なるべく道をあけてやらねばなるまい。しかしその効果については多少の疑いを抱いている。私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」
キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、
「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから定まっている標準は動かされない。」
モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、
「貴方《あなた》は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智能が増すという『量的』の前提から、天才が増すというような『質的』の向上を結論するのは少し無理ではないか。」こう云った時にアインシュタインの顔が稲妻のようにちょっとひきつったので、何か皮肉が出るなと思っていると、果して「自然が脳味噌のない『性』を創造したという事も存外無いとは限らない」と云った。これは無論|笑談《じょうだん》であるが彼の真意は男女の特長の差異を認めるにあるらしい。モスコフスキーはこれを敷衍《ふえん》して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。
話頭は転じて、いわゆる「天才教育」の問題にはいる。特別の天賦あるものを選んで特別に教育するという事は、原理としては多数の承認するところで問題は程度如何にある。これは元来ダーウィンの自然淘汰説に縁をひいていて、自然の選択を人工的に助長するにある。尤もこの考えはオリンピアの昔から、あらゆる試験制度に通じて現われているので、それ自身別に新しいことではないが、問題は制度
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