ロプ・ノールその他
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)砂漠《さばく》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和七年十二月、唯物論研究)
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 東トルキスタン東部の流砂の中に大きな湖水ロプ・ノールのあることは二千年昔のシナ人にはすでに知られていて、そのだいたいの形や位置を示す地図ができていたそうである。西暦一七三三年に二人のヨーロッパ人が独立に別々にその地方の地図をシナから持ち帰った。ところがマルコポロは一二七三年にこの湖のすぐ南の砂漠《さばく》を通ったはずであるのに湖の事はなんとも言っていないのがおかしい。一七六〇年にシナ政府は三人のジェスュイトをこの地方へ視察に派遣したが目ざす地方には至るところ砂漠ばかりで求むる湖水はどうしても見つからなかった。一八七六―七七年プルジェワルスキーが探険した時にはこの湖水と思われるものが見つかったが、しかしそれはシナの古図の示すよりはるかに、すなわち約一度ぐらい、南にあった。それで古図がひどく間違っていたか、それともプルジェワルスキーの見たのは別物であったか、それともまた昔のロプ・ノールに注いでいた川がその後に流路を変じてその下流に別の湖水を作り元の湖水が干上《ひあ》がってしまったかの問題が起こった。一八九九年の探険でスウェン・ヘディンがタリム川の流路を追跡して行った時、川がある点から急角度で南東に曲がって、そうして砂漠の南のほうに湖水を作っているのを見いだし、それがプルジェワルスキーの見たのと同じものだとわかった。しかしタリム川の急に曲がった所から東のほうへかけてまさしく干上がった川床らしいもののある事に注意した。一九〇〇年に、もう一度そこへ行ってこの旧河床の地図を作り、これが昔のタリムの残骸《ざんがい》である事を結論した。それからもう一度ロプ・ノールへ行ってよく観察して見ると、水がきわめて浅くそうしてだんだんに沈積物で埋まりつつあるらしく見えた。そこから砂漠《さばく》を北に横ぎって行くうちに偶然都市の廃趾《はいし》らしいものを発見した。それが昔の楼蘭《ローラン》であることは発掘の文書で明らかになった。この死市街の南から東へかけた平坦《へいたん》な砂漠の水準測量をやった結果、これが昔の湖水の跡だということが推論された。それでヘディンは、タ
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