の演説はよく聞き取れないくらいであった。しかし晩年はかなり講演がうまくなり、政治演説なども相当有効にやってのけるようになった。
 自分の研究をする自由は得たが、実験を始めようとしても器械や道具が手に入れられなかった。定性分析のコースを一学期やらせてもらったくらいのものであった。しかし読物には事を欠かなくてマクスウェルの電磁気論(一八六五)や、マクスウェル及びヘルムホルツの色の研究、それからストークスやウィリアム・タムソンの主要な論文を読み、傍《かたわ》らまたミルの論理学や経済論を読んでいた。
 一八六六年二十四歳で Trinity の Fellowship を獲た。その頃の友人の中には George Darwin も居たが、違った方面の友では Arthur Balfour すなわち後の首相バルフォーア卿と親交を結んだ。これが彼の生涯に大きな影響をすることになったのである。
 一八六七年の八月に始めて大西洋を越えてアメリカの旅をした。帰ってみると彼の郷里ではチフスが流行していたので家族とともに五マイル離れた Tofts へ転地し、父のレーリー卿がただ一人 Terling に止《とど》まっ
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