の面前に現われた最後は心霊学界の会長就任演説(一九一九)をした時であった。この演説も全集に収められている。
一九一七―一八年の冬頃からどうも脚が冷えて困ると云ってこぼしていた。一九一八年の夏は黄疸《おうだん》で二箇月寝込んだ。彼は自分の最後の日のあまり遠くないのを悟ったらしかった。それでもやはり仕事を続け、一九一八年には五篇、一九一九年には七篇の論文を出した。
一九一八年の暮バキンガム宮で大統領ウィルソンのために開かれた晩餐会に列席した。明けて一九一九年正月の国民科学研究所の集会に出た時に所長の重職を辞したいと申出たが、一同の強い勧誘で一先ず思い止まった。その時のついでに彼はインペリアルカレッジの実験室に長子をおとずれた。丁度その時子息が実験していた水銀燈を見たときに、彼は、干渉縞[#「干渉縞」は底本では「干渉稿」]の写真を撮って、それで光学格子を作るという、自分で昔考えた考察を思い出した。しかしターリングの設備では実行が出来ないのであった。それで、次にロンドンへ来た折に二人で一緒にやってはどうかという子息の申出を喜んだように見えた。それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒した
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