月ケント州の Bedgebury の親戚の宅で泊っているうちに劇烈な熱病(rheumatic fever)に罹り、一事は心許《こころもと》ない容態であった。関節と肺とを冒されたのであった。幸いに治癒したが、急に年を取ったように見えた。
 Toftsの新居に実験室を造ろうと考えてマクスウェルの知慧を借りたりしたが、結局ここにはわずかに四箇月くらいしか居ないことになった。ここでは主に廻折格子《かいせつこうし》を写真で複製する実験をやったのである。後年この家の後継者はこの実験室を玉突き室に改造したそうである。
 病後の冬の寒さを避けるためにエジプト旅行に出掛けた。夫人の姉エリーノアも同道した。その頃はまだ珍しかったスエズ運河を見、蜃気楼《しんきろう》に欺されたりして、カイロに着き、そこから小船に乗ってナイル河を遡《さかのぼ》った。南京虫《ナンキンむし》や蚤《のみ》蚊《か》に攻められながら、野羊《やぎ》の乳を飲み、アラビア人のコックの料理を食って、一八七二年の十二月十二日から翌年三月中旬にわたる単調な船住いをつづけた。この退屈な時間を利用して彼はその名著 Theory of Sound の草稿を書いていた。午前中は大抵キャビンに籠ってこの仕事に没頭していた。しかしすっかり戸口を締め切って蠅《はえ》を殺してしまってから仕事にかかる必要があったのである。義姉のエリーノアはレーリーの机の前に坐って彼から数学を教わっていた。どんな面白い見物があっても午前中はなかなか上陸しようとしなかった。午後にはデッキへ出てエジプトコーヒーをすすりながら、エジプトロギーをひやかしなどした。
 帰途はギリシアからブリンデイシ、ヴェニスを経て一八七三年五月初旬にロンドンに着いた。そうしてアーサー・バルフォーアの近頃求めた No.4 Carlton Gardens に落着いた。これが晩年までも彼のロンドンでの定宿となり、ほとんど毎年数週ないし数月をここに送ることになったのである。
 旅から帰った翌月、すなわち六月十四日に彼の父のレーリー卿が死んだ。これは彼にとって大きな悲しみであったのみならず、父の遺産の管理という新たな責任が彼の科学的生活の前途を妨げはしないかという心配があった。
 一八七三年の秋に新しきレーリー卿となった彼はトフツの邸《やしき》から父祖の荘園ターリングに移った。それまでは石油ランプを使っていたのをガス燈にし、また実験用の吹管《すいかん》や何かに使用するために、新たに自家用のガス発生器を設備した。その他には客間にあったオルガンを書斎に移したくらいで、外には別に造作を加えるようなことはしなかった。晩年に到るまで、彼はこの旧宅に手を入れることは容易に承諾しなかった。そうして彼の幼時の思い出のかかっている家具の一つでも取除けることを許さなかった。
 この年に彼は F. R. S. に選ばれた。そうして一八七四年から一八七九年までは平穏にターリングの邸で暮していた。一八七四年の夏頃始めていわゆる心霊現象(spiritualistic phenomena)の研究に興味をもつようになった。それはクルックス(W.Crookes)がこの方面の研究に熱心であったのに刺戟されたものらしい。彼は、もしこれらの現象が本当であれば、それはあらゆる他の科学的の発見よりも遥かに重要であると考えたのであった。しかし色々の実験に立合ったりした結果は彼を失望させた。もしそうでなかったら、彼はおそらく生涯をこの方面の研究に捧げたかもしれないということである。しかし彼が最後までこの方面の興味を捨て切れなかったことは、彼の死んだ年一九一九年に心霊現象研究会の Presidential Address をやっているのを見ても分るであろう。何事も容易に信じない代りに、また疑わしいものでも容易には否定しないのが彼の特長であった。
 一八七五年に上院で演説をさせられた。それは衛生問題に関することであったが、云いたいと思うことは皆口止めされて結局何も云うことがなくて困ったと云ってこぼした。これはソリスベリー卿が彼を政治界へ送り出す初舞台としてやらせたらしいのであるが、当時既にレーリーの心は科学の方へ決定的に傾いていた。一八七六年には動物虐待防止法案の修正を提出した。一八七二年にはグラドストーンから大学の財政に関する調査委員会の一員となることを勧められた。一八七七年大学令の改正委員が選ばれた時も、彼は仲間に入れられた。旧師のストークスもその員《かず》に加わっており、わざわざアイルランドから出かけて来たが、会議中ただの一語も発せずに坐っていたそうである。レーリーも会議にはあまり熱がなかったと見えて、ある人が彼にある科学上の問題を話しかけたとき、それは午後の委員会のときにゆっくり考えてみようと云った。こ
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