チにその講義でやって見せる実験を喜んだ。ストークスの考え方や表現の仕方がすっかり気に入ってしまった。そのうちに Mathematical Tripos の試験が近づいた。彼の伯母が心配して師のラウスに見込みを聞いたら、ラウスは "He'll do." と答えたそうである。
 在学中の彼は試験官の銘々の癖をよく呑込んで、例えばトドハンター先生の出す問題を予知したりした。ある試験官は「ストラットの答案は多くの書物よりもいい」と云った。
 一八六五年の正月に彼は遂に Senior Wrangler の栄冠を獲た。その表彰式に彼の母も参列したが、人々は「我《わが》 Senior Wrangler の姉君[#「姉君」に傍点]」のために万歳を三唱」した。実際母は彼よりただ十八歳の年長者であったのである。彼の郷閭《きょうりょ》の人々のうちには彼の学者として立つ事が彼の Lord としての生活と利害の相反することを恐れるものもあった。この学位を得た後に二人の友人とイタリア旅行をしたが、美術見物には大した興味がないようであった。
 一八六五年の四月に始めての講演をした。ひどく「はにかみや」であったのでこの時の演説はよく聞き取れないくらいであった。しかし晩年はかなり講演がうまくなり、政治演説なども相当有効にやってのけるようになった。
 自分の研究をする自由は得たが、実験を始めようとしても器械や道具が手に入れられなかった。定性分析のコースを一学期やらせてもらったくらいのものであった。しかし読物には事を欠かなくてマクスウェルの電磁気論(一八六五)や、マクスウェル及びヘルムホルツの色の研究、それからストークスやウィリアム・タムソンの主要な論文を読み、傍《かたわ》らまたミルの論理学や経済論を読んでいた。
 一八六六年二十四歳で Trinity の Fellowship を獲た。その頃の友人の中には George Darwin も居たが、違った方面の友では Arthur Balfour すなわち後の首相バルフォーア卿と親交を結んだ。これが彼の生涯に大きな影響をすることになったのである。
 一八六七年の八月に始めて大西洋を越えてアメリカの旅をした。帰ってみると彼の郷里ではチフスが流行していたので家族とともに五マイル離れた Tofts へ転地し、父のレーリー卿がただ一人 Terling に止《とど》まっ
前へ 次へ
全29ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング