》に答え難いものである。それほどにこれらの問題は宇宙の構造に関する科学上の問題の急所に触れている。物質的宇宙の限界、その進化の諸問題について、われわれが知り得たと思っている事は今日でも実はまだきわめてわずかである。
 この物質量の無限大を論ずる条下に現われているもう一つの重要な考えがある。元子が集合して物を生ずるのは、元子の混乱した衝突の間に偶然の機会でできあがるものであって、何物の命令や意志によるのでもない。そういう偶然によって物が合成されうるためには無限の物質元子の供給を要するというのである。この「偶然」の考えも実に近代の原子説の根底たる統計力学の内容を暗示するように見える。偶然のみ支配する宇宙ではエントロピーは無際限に増大して死滅への道をたどる。これを呼び帰して回生の喜びを与えるべき別の「理」はないものであろうか。ボルツマンやアーレニウスは、そういうプリンシプルの夢を書き残した。しかしこの夢はまだだれも実現し得ない。この問題に対してなんらかの示唆を与えるものは
[#ここから3字下げ]
…………………………………………………
It is preserved, when once it has been thrown[#「preserved」の部分はイタリック体]
Into the proper motions, …………………[#「proper motions」の部分はイタリック体]
[#ここで字下げ終わり]
という言葉である。これは言い換えると、偶然の産物に或《あ》る「選択の原理」が作用する事を意味する。この選択を行なう魔物は何であるか。これについては彼は何も述べていない。しかしそういうものの存在をここで暗示しているものと見るのははたして不倫であろうか。マクスウェルのデモンはあるいはまさにその一つの魔物ではあり得ないか。

       二

 第二巻においてルクレチウスは元子の運動の状況や、その形状や結合の機巧等を前よりも詳しく具体的に記述しているのである。
 例によって冒頭には、富貴権勢は幸福の源泉でなくて、かえって不幸の種である。ただ理知による真理の探究が真の心の平静を与えるものだという意味の前置きがある。そして前にあげた四行のリフレインが再び繰り返されている。
 元子は結合するが、その結合は固定的ではなく、不断に入れ代わり、離れまた捕われる。eternal give and take である。しかしその物質の総和は恒久不変であると考える。ここの考えは後代の物質不滅説を思わせる事はだれも認めるであろうが、また見方によっては、たとえば溶液分子のようなものの化学的平衡を思わせる何物かを含んでいるからおもしろい。
 元子は互いに衝突する。その速度は一部は固有のものであり、一部は衝突によって得るものである。衝突の結果はいろいろである。ある元子はその複雑な形状のために互いに引っ掛かって結合して剛《かた》い物を造るが、あるものは反発して柔らかい物質となりあるいは全然離れ合ってしまう。これは言わば固液気三態の原子構造の説明と見られる。
 元子が集まって微小な物体を作り、それが集まって、またそれより大きいものを作り、順次に目に見える物ができあがるというのである。これも原子から微晶、微晶から多晶金属の組成、あるいはまたコロイドから有機体の生成等の機巧と相通じる考えである。
 日光に踊る微塵《みじん》の有名な譬喩《ひゆ》の出て来るのはこの条である。私のおもしろいと思ったのは、元子の寄り合ってできる細粒が、不可視的元子の衝動によって動かされて、粒全体としての運動を生ずるという考えが述べてあることである。それがちょうどブラウン運動の記述に相当する事である。
 元子が動いているのにその組成物体が静止しているように見える事のあるのは何ゆえか。それはわれわれの「知覚には限界がある」からである、と言って、遠い小山に緑草をあさる羊の群れがただ一抹《いちまつ》の白い斑《まだら》にしか見えないという、詩人らしい例証をあげている。この知覚の限界という事を延長させれば、「観測の限界」という最近の物理学の標語になるのである。
 元子の速度はいかに大きいものであるか。太陽が出ると一瞬時に世界は光に包まれる。この光の元子は空虚を通るのではなく、物質の中を通って来るのにかかわらず、これほどに早いものであるとすれば、空虚を飛び行く場合の速度はさらに大きなものでなければならないと論じる。
 ここで光の速度という観念、また真空と物質の中とでの速度の相違という事が想像され意識されている。
 次に元子説の反対者が「神の意志」を持ち出すのに対する弁駁《べんばく》が插入《そうにゅう》されているが、これと本文との連絡がよくわからないとマンローも述べている。しかしあるいは元子が一種の自然方則に支配されている、その記述に移らんとするための前置きとも見られない事はない。すなわちその次に彼はすべての物質は自分の力では「上方」には上らないという方則を持ち出すのである。
 見かけの上から「上」に浮かぶものはいろいろあるが、それは別に働力のためであると考えている。これもストア派に対する反対だそうである。
 この考えからすると、すべての元子は皆「下」にまっすぐに落ちる。その場合いかにして元子相互間の衝突が可能となるか。この困難を切り抜けるために持ち出された一つの今から見て奇抜な考えは、この元子のおのおのはその直線的並行落下の途中で、ある不定な時、不定な場所において、おりおり、きわめて少しその経路を曲げるというのである。
 しかし各種元子の中で、重いのと軽いのとで各自の落下速度がちがうとすれば相対距離が変化するから相互の衝突が起こりうるではないかという人があるだろう。しかしそれは誤っている。なんとならば、真空中では抵抗がないから、すべての元子は同速度で落下するからである、とルクレチウスは断言している。彼がおそらくなんの実験にもよらずしていかにしてこの落体に関するアリストテレスの誤謬《ごびゅう》を認め得たかはわからない。しいて想像すれば空気中と水中とにおける落体の偶然な観察が彼の直覚を誘発したかもしれない。
 元子が互いに衝突するために物が生成し変転するという考えと元子が同速度で並行に動くという考えとの矛盾を融和するために持ち出されたこの原子の偶然的任意的偏向を一転して「自由意志」の存在と結び付けようとしている。これがはなはだ注目すべき考えである。
 彼は人間や動物に自由意志なるものの存在を無条件に容認する。さて彼の元子論に従ってすべての元子が自然方則によって直線落下をつづけるか、あるいは少なくもなんらかの確定的の方則によって支配されているならば、すべての世界の現象は全然予定的に進行するのみであって、その間になんら「自由」なる意志の現われうべき余地はないのである。しかし一方で意志の存在を許すとすれば、これはどこからはいり込んで来るか。徹底的物質論者である彼はそういうものを物質以外の世界から借用して来るという二元論的態度はどうしてもとれなかった。従って当然の必要から彼は意志の根元を彼の元子に付与したのである。
 この考えは一見はなはだ非科学的に見えるであろう。当時でもキケロによって児戯視されたものである。しかし今の科学のねらいどころをどこまでも徹底させて生物界の現象にまでも物理学の領土を拡張しようとする場合には、だれでも当然に逢着《ほうちゃく》すべき一つの観念である。私はかつて雑誌「思想」の昭和二年九月号に出した「備忘録」の中で、生命の起元に関する未熟な私見を述べた際に、生命の胚子《はいし》は結局原子そのものに付与するのが合理的であるという考えを述べておいた。これは、数年前、同種元素の原子に個性の存在を暗示したウィリアム・ソディの説に示唆されてから考えた事であったが、今になって考えてみるとこの私の考え方は全然ルクレチウスのここの考えを、知らずに踏襲したものとも言われるのである。
 自然の漸進的死滅を救いうべき「選択原理」の有無について前章に述べた事をここで再び繰り返し考えてみると、私はこのルクレチウスの元子の任意志的偏向のうちに、その求むる原理の片鱗《へんりん》のごときものを認めうるのではないかと思うのである。
 さて元子の形状や大きさはどんなものかという説明に移る前に、これらの元子の種別の多種多様である事を述べている。この種別に関しては、現今では有限数の元素を区別するが、同一元素のすべての原子はすべて同等であるごとく考える。もっとも化学の方面では炭素原子の種々の化合価を有するものを区別し、またスペクトルの物理では同元素原子の種々の素量的状態を区別するが、そういう変態はどの原子にも共通に可能と考えるから、結局同元素原子には個性を認容していないことになる。しかるにルクレチウスの言葉から判断すると、人間がめいめいに異なるごとく、羊と羊とが異なるごとく、全く同一なる元子は一つもないと考えているらしい。すなわちウィリアム・ソディの暗示したごとく原子の個性を認める事に相当する。この現代科学の考え方とちがった考え方をしたのは、いかなる必要もしくは動機によるかわからないが、しかし前述の元子の自由意志の考えとは、かなりまでよく融合しうるものであることを注意しておきたい。
 元子には大きさの種類がある。たとえば雷電の火の元子は薪炭の火の元子よりも微小であるから、よく物を透す力がある。光は提灯《ちょうちん》の羊角《ようかく》を透るが雨ははね返される。これも光と水の元子の大きさの差による、というような例があげてある。
 次には元子の形状の差違を述べている。酒は流れやすいのに油が流動しにくいのは、後者の元子が「曲がりもつれ合っている」ためであると考えている。すなわち液体粘度の差を原子の形状から説明しようというのであるが、この問題は現在においても実はまだ充分には解決されていないものである以上、われわれは軽卒に彼の所説を笑う事はできない。
 われわれの官能を刺激する光、音、香、味は、いずれもおのおの目的物から飛来する元子による一種の触覚であるという考えである。そして、すべてわれわれに快い感覚を与える光音香味の元子は丸くなめらかであり、不快に感ぜらるるものの元子は角《かど》があり粗鬆《そしょう》であると考える。暑さと寒さの元子はいずれも刺《とげ》がある。その刺のある様子がちがうというような考えである。これらはもちろんかなり勝手な想像ではある。しかしたとえば芳香属《アロマティック》の有機化合物に共通なる環状分子構造のことなどを考えてみると、少なくも嗅覚《きゅうかく》味覚のごとき方面で、将来このような考えがなんらかの意味で確かめられないとは保証し難いように思われる。音や光でさえも、音波の形が音色を与え、光波の波長の大小が色彩を与える事を考えると、今より百年後の生理学の立場から見てあるいはルクレチウスの言葉を適当に翻訳する事ができるようになりはしないか。不規則に角立《かどだ》った音波は噪音《そうおん》として聞かれ、振動急速な紫外線は目に白内障をひき起こす。その何ゆえであるかは完全には説明されていないではないか。いわんや光の量子説の将来は未知数である。現に光の網膜に対する作用が光電《フォトエリクトリック》現象であるとかないとかいう議論が行なわれつつある。もしそうであるとすれば、その場合の光は結局素量的であって、すなわち光の元子である。その波の量子エネルギーを定める振動数はある意味での量子の「形」とも見られるのではあるまいか。
 それはとにかくすべての感覚を、器械的現象に引きならしてしまおうとしているところに、われわれはルクレチウスの近代科学的精神の発現を認めなければならない。
 次には、固体元子は曲がりあるいは分岐しているのに対して液体の元子は丸くなめらかであるとしている。これも、一方に結晶体の原子格子《げんしごうし》の一小部分を考え、他方に液体の分子集合の緩舒《かんじょ》な状態を考えれば、ある度まではあたっていると言わ
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