得たのである。
目に見えぬ実在の他の例としては彼はなお、香気や湿気などをあげている。また物体の磨滅《まめつ》の現象からも、目に見えぬ微小部分が存するゆえんが引証されている。
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。「空間がなければ物は動けない」のである。彼の空間は真の空虚であってエーテルのごときものでない。この点もむしろ近代的であると言われよう。
物質原子の空間における配置と運動によってすべての物理的化学的現象を説明せんとするのが実に近代の少なくも十九世紀末までの物理学の理想であった。そうして二十世紀の初めに至るまでこの原子と空間に関するわれわれの考えはルクレチウスの考えから、本質的にはおそらく一歩も進んでいないものであった。近年に至って原子は電子とプロトーンによって置き換えられ、ごくごく最近に波動力学の出現によってこれら物質的素量に関する観念に始めて目立った変化をきたしつつある。また一方相対性理論の発展によって、いわゆる空間に属する考えもまたこの素朴《そぼく》な状態を離れて来たのである。しかし現在においても普通の大多数の具体的の問題は依然として昔のままの空間および原子で間に合っているのである。
さて、次に、物質は原子と空虚の混合であるという考えから物の有孔性や、比重の差違の生じる事を述べている。音響もまた原子の発散によるものと考えるから、音が壁を通過するのも壁の原子間に空隙《くうげき》があるからだと言って説明している。これは今の学生の答案として見れば誤謬《ごびゅう》である。しかし実際壁の元子間に空隙《くうげき》が少しもなく、従って完全剛体であったら、音のエネルギーは通過し得ないであろう。そういう意味ではこれもやはりほんとうである。ルクレチウスはその次に水中における魚の運動や、また物体の衝突反発の例をあげて空虚の説明に用いているが、この解説は遺憾ながら今の言葉に翻訳し難いように見える。
次には、空間と物質とが「それ自身に存在する」ただ二つのものであって、それ以外に第三のものはないという事を宣言している。その意味はすでに前述のごとく器械的力学的自然観の基礎として現代に保存されたものと同義である。これは物の作用や性質やまでも物体視せんとするストア派の学者に対する手ごわい論難として書かれたものであるらしい。そしてそれはまた今の物理の学生たちがあたかもあたりまえの事であるように教わり、またそう思ってかつて一度も疑ってみる事すらしなかった事である。これも皮肉な事である。今の学生の頭が二千年前の詩人よりも劣っているのか、それとも今の教育法が悪いのかそれはわからない。
ここで注意すべきもう一つの事は、「時間」なるものがやはりそれ自身の存在を否定されて、物性や作用などと同部類のいわゆる偶然的な、非永存的のものと見なされている事である。これも一つのおもしろい考え方である。十九世紀物理学の力学的自然観は、すべての現象を空間における質点の運動によって記載しようとした。そのために空間座標三つと時間座標一つと、この四つの変数を含む方程式をもってあらゆる自然現象の表現とした。後に相対性理論が成立してからは、時もまた空間座標と同様に見なされ取り扱われるようになったが、時というものの根本的な位地を全然奪おうとした物理学者はなかった。しかしもともと相対性理論の存在を必要とするに至った根原は、畢竟《ひっきょう》時に関する従来の考えの曖昧《あいまい》さに胚胎《はいたい》しているのではないかと考えられる。時間もそれ自身の存在を持たないと言ったルクレチウスの言葉がそこになんらかの関係をもつように思われる。「物の運動と静止を離れて時間を感ずる事はできない」という言葉も、深く深く考えてみる価値のある一つの啓示である。彼は「運動」あるいは速度加速度にともかくも確実なる物理的現象、可測的現象としての存在を許容して、時間のほうをむしろ従属的のものと考えているかのように見える。この考えははたしてそれほど価値のないものであろうか。
普通力学の問題において、運動方程式が完全に解かれた場合には、すべての質点の各位置における速度、加速度、運動量、あるいはエネルギーのごときものが、それぞれ時の函数《かんすう》として与えられる。逆に、たとえ常に単義的ではないまでも、この後者の数値が与えられれば、それから時間がこれらの函数として与えられうるのである。またおもしろい事には可逆的週期運動の場合にはかくして得られる「時」は単義的に決定されない。しかして実際そういう運動のみの世界には物理学的に非可逆の時は存在しないのである。そこで私は一つの夢のようなものを考えさせられる。われわれは時の代わりに或《あ》る何かのエネルギーあるいは「作用《ウィルクング》」のごとき量を基本的のものとしてこれを空間と対立させる事によって、新しき力学的系統を立て直す事は不可能であろうか。そうする事によっていろいろの現代の物理学当面の困難が解決されうる見込みはないものであろうか。少なくもルクレチウスの言葉はこういう問題を示唆するもののように思われる。
次に彼は論じて言う。元子からいろいろの硬《かた》さのものが造られるが、元子自身は完全に剛体であると考えなければならない。なんとならば、元子が柔らかいものであれば、これはその中に空虚を含んでいる。しかるに空虚と元子と対立すべきその元子の中に空虚が含まれているわけには行かない。where'er be empty space, there body's not; and so where body bides, there not at all exists the void inane. である。ここで私は思い出す。かつて分子や原子の「弾性」という事が問題になった事がある。可触的物体の「弾性」を説明するために持ち出された分子や原子に、可触的物体と同じような「弾性」を考えようとすることの方法論的の錯誤あるいは拙劣さが、今このルクレチウスの言葉によって辛辣《しんらつ》に諷《ふう》せられているとも見られない事はない。
ともかくも物質元子に、物体と同様な第二次的属性を与える事を拒み、ただその幾何学的性質すなわちその形状と空間的排列とその運動とのみによって偶然的なる「無常」の現象を説明しようとしたのが、驚くべく近代的である。そしてまさにこの点で彼が、彼の駁撃《ばくげき》を加えているヘラクリトス、エンペドクレース、アナクサゴラスの輩《やから》をいかにはるかに凌駕《りょうが》しているかを見る事ができよう。そして現在においても科学者と称するものの中に、この三者の後裔《こうえい》が、なおまれには存在している事を彼によって教えられるのである。
元子は恒久的な剛単体 solid singleness でなければならない。そして微小ではあるが有限の大きさをもたなければならないという事を証明しようと試みている。剛体でなければ、それから剛体が作り得られないであろう。恒久なものでなければ、恒久に無常なこの世界を補充 replenish する事ができないであろう。またもし大きさが有限でなければ、物質は無限に分裂しうる、従って過去無限の年月の間に破壊し分解されたものが再び合成し復旧されるためには無限大の時を要し、結局何物も成立し得ないというのである。これは明らかにボルツマンの学説の提供する宇宙進化の大問題に触れていることを見のがす事はできない。なおこの議論の根底には後に述べる時の無窮性の仮定が置いてある事はもちろんである。
私は近代物理学によって設立された物質やエネルギーの素量の存在がいわゆる経験によった科学の事実である事を疑わないと同時に、またかくのごとき素量の存在の仮定が物理学の根本仮定のどこかにそもそもの初めから暗黙のうちに包含されているのではないかということをしばしば疑ってみる事がある。われわれが自然を系統化するために用いきたった思考形式の機巧《メカニズム》の中に最初から与えられたものの必然的な表象を近ごろになっておいおい認識しつつあるのではないかという気がするのである。ルクレチウスは別にこの疑問に対してなんらの明答を与えるものではないが、少なくも彼は私のこの疑いをもう少し深く追究する事を奨励するもののように見える。
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For, lo, each thing is quicker marred than made;
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という句がある。これを試みに熱力学第二方則の最初の宣告と見るのも興味がありはしないか。
彼はなお、もし物質に最小限がなければ、最小なものでも無限を包蔵し、従って微分と総和の区別がなくなるという哲学者流の議論をしている。このあたりの議論はおそらく科学者にはあまり興味がないであろう。哲学的のスケプチシズムに対しては何かの意味はあるかもしれないが、われわれにはたいして直接の必要のない議論である。なんとならば、科学は畢竟《ひっきょう》「経験によって確かめられた臆断《おくだん》」に過ぎないからである。われわれはここではただエピキュリアンのこれらの驚くべき偉大なる臆断を嘆美すればよい。
ルクレチウスは、かようにして、彼のいわゆる元子の何物であるかを説明した後に、エピキュリアンに対立した他の学説に対して峻烈《しゅんれつ》な攻撃を加えているのである。万物が火より成るとか、地水火風から成るとか、また金は金、骨は骨と、いわゆるホメオメリアより成るとか、そういう考えから来る困難を列挙し、また一方では自説に対するこれら他学派の持ち出すべき論難に対して勇敢に応戦している。しかし、要するに、これは、彼の元子説特に元子に第二次的属性を付与する事が不穏当であるという前提の延長であるが、しかしそれはまた今の物理学が当然の事として採用しているところである。この条を読んでいると、今の物理学者がもし昔のギリシアの学者たちと議論したとしたならば、必ず言いそうな事が数々見いだされておもしろい。
この論議の中に、熱は元子の衝突運動であるという考えや、元子排列の順序の相違だけで物の変化が生じるというような近代的の考えも見えている。
そこで、ルクレチウスは言葉を改めていう。自分はミューズの神のインスピレーションによって、以下さらに深く真理の解説をしようとする。しかしこういうめんどうなむつかしい事がらを説くには、「詩」の助けをかりなければならない。苦《にが》い薬を飲ませるには杯の縁に蜜《みつ》を塗らなければならない、と言っている。
さて、それから、空間には際限がないという事を論ずるのであるが、これは、「先には先がある」というだけの事であって、これはアインシュタインの一般相対性理論の出るまでは、素人《しろうと》も科学者も同様に考えて来た素朴的《そぼくてき》観念であって別に珍しい事はない。
次には物質総量が無限大である事を説いている。もし無限大の空間にただ有限の物質があるとしたら、物質はすべてその組成元子に分解し尽くして、もはや何物も合成され得ず、従って何物も存在し得ない。なんとならば、物質世界の保存には「かなた」からの不断の補充を要する。それには無限の物質素材を要するというのである。これは、後に述べるように、彼の考える「元子の雨」が無際涯《むさいがい》の空間の果てから地上に落下しつつある、という前提が頭にあるからの議論である。ルクレチウスが今の科学に照らして最も不利益な地位に置かれるのは、彼がここで地を平面的に考え、「上」と「下」とを重力と離れて絶対的なものに考えている事である。それで彼はこの条下で地の球形説に対して、コロンバス時代の坊さんの唱えそうな反対説を唱えている。しかし無限の空虚の中にいかにしてある「中心」が存在し、かつ支持されうるかという論難は、ニウトン以前の当時の学者には答えられなかったであろうのみならず、現在においても実は決して徹底的には明瞭《めいりょう
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