ゥと考えてみると、自分には決してそうは思われないのである。ヨハネは目的の上からすでに全然宗教的の幻想であるのに反して、ルクレチウスのほうは始めから科学的の対象を科学的精神によって取り扱ったものである。彼の描き出した元子の影像がたとえ現在の原子の模型とどれほど違っていようとも、彼の元子の目的とするところはやはり物質の究極組成分としての元子であり、これの結合や運動によって説明せんと試みた諸現象はまさしく現在われわれの原子によって説明しようと試みつつある物理的化学的現象である。
 意味のわからない言葉の中からはあらゆる意味が導き出されることは事実である。狡猾《こうかつ》なる似而非《えせ》予言者らは巧みにこの定型を応用する事を知っている。しかしルクレチウスは彼の知れる限りを記述するに当たって、意識的にことさらに言語を晦渋《かいじゅう》にしているものとは思われない。少なくとも訳文を見ただけではそうは思われない。多くの場合にわれわれは彼の言わんと欲するところをかなりの程度まで確かに具体的に捕えうるように思う。こういう点でもルクレチウスの書は決して偶然的予言と混同さるべき性質のものではない。
 私は
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