れてある。
 表面の粗なる物体にこの「像」が衝突した場合には、この薄膜の像が破れてしまうから、映像を生じないという説明や、また遠方の物体が不鮮明に見えるのは長く、空中を飛行する間に無数の衝突を受けて、像のとがった角《かど》が次第につぶれてしまうからであるという光の拡乱の説明は、やや近代的なものを含んでいる。
 知覚が与えるものは常に正しくても、その判断の誤りから錯覚を生ずると言っていろいろの例もあげてある。そしてこれに続いて自然の認識の基礎となるべきものはしかし結局|吾人《ごじん》の感覚にほかならないという感覚論的方法論の宣言がある。これは後にマッハの一派によって展開されたものの先駆をなすものと見られる。そしてプランクらの「感覚からの開放」という言葉が彼らの意味では正当であるとしても、われわれはこのルクレチウスの所説もまた同時に真理として認容しなければならない。いかに人間が思い上がってみたところで、五官を封じられてしまって、そうして物理学の課程を学ぶ事がどうしてできるであろうか。
 音響はやはり一種の放射物であるが「像」のようなものとは考えられていないらしい。そして音の散乱、反射という
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