言ったりしている。このへんの所説はしかし私の今の立場から詳説すべき範囲外にあるからすべて省略する事とする。
 これらの所説は畢竟《ひっきょう》するに人間霊魂非不滅論に導くべき前提としてルクレチウスのかなり力こぶを入れているところであるらしく見える。
 以上の所説のごとくにして造られた世界には、同じようなものがたくさん共存するという考えから、われわれのと同じ世界が、他にもいくつも存在するであろうという考えが述べてある。これも一つの卓見であると言われよう。さように限りなき宇宙を一人の力で支配する神様はないはずだというところへ鋒先《ほこさき》を向け、そして例の宗教の否定が繰り返される。
 この条下にこの世界の誕生、生長、老衰、死滅に関することも述べられている。これらを省略して直ちに第三巻に移ろう。

       三

 第三巻の要項とするところは、人間精神の本性を論じこれもまた物質的なる元子より成るものであることを論じ、それから霊魂は死滅するものであるという事を「証明し」最後に死の恐るるに足りない事を結論するのにある。
 これらの所論はルクレチウスの哲学的の立場からすれば最も重要な役目を務めるものであろうが、今の私の立場から見るとあまりに現在の科学の領域を逸出した問題である事はやむを得ない。もっとも今から百年二百年後の精神物理学者が今の私のような立場でこの巻を読めばあるいは、この巻において最も興味ある発見に出会うかもわからないという事は想像し得られる。しかし私としてはこの巻をきわめて概括的な、主としてマンローの摘要による紹介だけで通過しなければならない。これらの所説の哲学史的の意義については他の哲学書に譲るほかはない。
 冒頭には例によってエピクロスにささげた礼賛《らいさん》の言葉がある。そうして、あらゆる罪悪を生むものは死の恐怖である。もし、精神というものの本性を明らかにさえすれば、死は決して恐ろしいものではなくなるであろうから、これからその説明を試みようというのが前置きである。
 まず心(mind, animus or mens[#「animus」、「mens」の部分はイタリック体])は他の学者の説くごとく人体の調和原理でもなく生命原理でもなく、ちょうど頭や足が人体の部分であると同様の意味において人体の「部分」であるに過ぎない。その証拠には肉体が病気でも心は幸福でありうるし、心が悪くても健康でありうる。ちょうど足が痛んでも頭は平気でありうると同じである。
 同様に精神(soul, anima[#「anima」の部分はイタリック体])もやはり人体の一部で全体の調和ではない。からだの部分を取り去っても、生命は持続する。これに反して「熱と空気の粒子」がほんのわずか逸出すると死んでしまう。これから考えると生命持続のためにはある特別な要素が必要だという事がわかる。しかしそれは人体に含まれている元素であって、全体の調和原理でもなんでもない。
 ここで心と精神 animus と anima をルクレチウスがどう考えているかというと、両者は相互に連関したものであるが、心は支配者として胸の中枢なる心臓に座し、精神は全身に分布して心の命令に従うものとしている。私の読み得たところが誤りでなければ、彼のいわゆる心は脳に相当し、精神は全身に広がれる知覚ならびに運動神経に相当するように見える。そう思って読むと彼の言葉が了解しやすくなるのである。
 心の衝動によって精神が刺激され、これが肉体を動かす。物質的肉体を動かすものはまた、物質でなければならない。ゆえに精神、従って心もまた物質的のものでなければならないと論ずる。これは彼の唯物観の当然の帰結であり、またおそらく現代の多くの物理的生理学者の暗黙のうちに仮定しつつある事でなければならない。
 精神は物質であるとすれば、それはやはり物質的原子より成るはずである。ただし心や精神の元子は非常に微細でその速度は非常に大なるものでなければならない。なんとなれば考えの速さは何よりも早い。そして人が死んでも、少なくも見かけの上で、大きさも重量も変わらない。あたかも酒の気の抜けたようなものである、というのである。ルクレチウスはもちろん神経の伝播速度《でんぱそくど》の実際などは知らなかったが、ともかくも考えの速さという事を物質的なるある物の速度で置換した。
 人間の息を引き取る前とあととにおける体重を比較しようとする学者は今おそらく一人もないであろう。しかし徹底的なる現代科学的精神からすれば、この実験を遂行せずして始めから結果を断定する事は許されないであろう。
 精神を組成するものは、「精《スピリット》」、「熱」、「空気」、とそれに第四のある「名のない者」とである。この第四の者は最細最微にしてかつ最も急速度のもので、これが
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