たきわめて徹底的な一般的素量説の標語としても見られる。しかして現在|洪水《こうずい》のごとく物理学の領土を汎濫《はんらん》しつつある素量の観念の黙示のごとくにも響くのではあるまいか。
元子の種類が有限であるという考えと、最初の元子個性説とは一見矛盾するように見える。しかしこの矛盾ははなはだ貴重なる矛盾であり、実に無機界の科学と生物界の科学との矛盾である。そうしてこの矛盾を融和することこそ、未来の科学の最も重大な任務でなければならない。
元子の種類は有限であるが、各種元子の数は無限である。これは物質総量の無限大という前提から来る当然の帰結である。
これら無数の元子はその運動の結果として不断に物を生成し、また生じた物は不断に破壊され、生成と破壊の戦いによって世界は進行する。生のそばには死、死のそばには生があるのである。この考えにはいわゆる「平衡《イクイリブリアム》」の観念が包まれている。
物の性能が複雑であればあるほど、その物の組成元子は多種多様である。われらの母なる地のごときものはその最も著しいものである。彼女はあらゆるものの母であるからである。そのために昔のギリシア人はこの地を人格化して神と祭り上げてしまった。しかしそれは譬喩《ひゆ》である。地はただの無生の物質の集合に過ぎない。
動植物は地から食物をとって生長する。従って彼らの中には共通な元子が多分に包まれている。しかし共通な元子からできても、その元子の結合のしかたや順序によって異種の物ができる。あたかも種々に異なる語に共通なアルファベットがあるようなものである。
しかし元子の結合のしかたにある定則があって、勝手放題なものはできない。そのために生物はその祖先の定型を保存し、できそこないの妖怪《ようかい》はできない。すなわちここで初めて遺伝の問題に触れている。
そういう事がどうしてできるか。それは動植物が摂取する食物の中で、各自に適当なものは残存し、不適当なものは排出されるからである。すなわちここにも「選択の原理」の存在を持ち出している。これと同じ事は無機界にも行なわれている。すなわち元子の結合にはある定まった方則が支配している。そのおかげで個々の一定の物質が区別されると考えるのである。これも化学におけるあらゆる方則全体の存在を必要とする根本原理を述べたものと見られる。
次にはすでに前にも述べたごとく、元子に可触的物体と同じような二次的属性を付与する事の不都合を詳述している。たとえば元子に色があるとしては、同じものの色の変化することを説明し難い。色の変化は元子の排列順序の変化あるいは元子の交代によって説明せられうると言っている。これもはなはだ近代的である。
色は光あって始めて生じるものであると言っているのも正しい。暗中では色の見えぬ事、照らす光によって色のちがって見える事が引証されている。有色物質を粉末にすると次第に褪色《たいしょく》するという事実が引用されているのもおもしろい。つまり、彼の考えではいっそう細かく分割して元子まで行けば無色になると言うつもりらしく読まれる。しかしここにいう色彩とそれが目を刺激する元子との関係はよくわからないのが遺憾である。
光が当たって色を生ずるのは光の元子の衝突し方によるもので、そのしかたの差は物質元子の形状によると述べてある。これはある程度まで近代的に翻訳する余地があるかと思われる。
同様に元子は香も味もなく、声も発せず、また熱くも冷たくもない。そういう変わりやすい無常的なる二次的属性が永遠不変なるべき元子にあるはずがない。
色のないものから色が生じるように、感覚のない土から蚯蚓《みみず》が生まれる。草や水が牛馬に変わる。同じ元子が混合排列のしかたや運動のしかたによっていろいろのものができる。ここで彼は生物がいかにして無機物から生じうるかを説明せんと試みている。後条で精神の元子を論ずるのであるからここでそういう議論は必要がなさそうにも思われるが、しかしここでは心や精神と切り離して感覚を考えているらしい。それはとにかく、感覚を有するものの素成元子は感覚を有すべきだとする事は必要としない。むしろありとするほうが不合理だとする彼の所説にはかなり重要な意義を含蓄しているように思われる。結局はこれもやはり前にたびたび繰り返した、物質と生命との間の「見失われた鎖環」に関する考察の一端である。平たく言えば、もし元子が生物のごときまとまった感覚をもつとしたら、それの集合したものがいかにして一つのまとまった感覚を持ちうるかという考えであると読まれる。
その次に、生物がはげしい衝撃を受けると肉体と精神との結合が破れて後者が前者の孔《あな》から逃げ出すというような考えから、苦痛や快楽の物質的説明を試み、「笑いの元子」などというものはないと
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