大きさが有限でなければ、物質は無限に分裂しうる、従って過去無限の年月の間に破壊し分解されたものが再び合成し復旧されるためには無限大の時を要し、結局何物も成立し得ないというのである。これは明らかにボルツマンの学説の提供する宇宙進化の大問題に触れていることを見のがす事はできない。なおこの議論の根底には後に述べる時の無窮性の仮定が置いてある事はもちろんである。
私は近代物理学によって設立された物質やエネルギーの素量の存在がいわゆる経験によった科学の事実である事を疑わないと同時に、またかくのごとき素量の存在の仮定が物理学の根本仮定のどこかにそもそもの初めから暗黙のうちに包含されているのではないかということをしばしば疑ってみる事がある。われわれが自然を系統化するために用いきたった思考形式の機巧《メカニズム》の中に最初から与えられたものの必然的な表象を近ごろになっておいおい認識しつつあるのではないかという気がするのである。ルクレチウスは別にこの疑問に対してなんらの明答を与えるものではないが、少なくも彼は私のこの疑いをもう少し深く追究する事を奨励するもののように見える。
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For, lo, each thing is quicker marred than made;
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という句がある。これを試みに熱力学第二方則の最初の宣告と見るのも興味がありはしないか。
彼はなお、もし物質に最小限がなければ、最小なものでも無限を包蔵し、従って微分と総和の区別がなくなるという哲学者流の議論をしている。このあたりの議論はおそらく科学者にはあまり興味がないであろう。哲学的のスケプチシズムに対しては何かの意味はあるかもしれないが、われわれにはたいして直接の必要のない議論である。なんとならば、科学は畢竟《ひっきょう》「経験によって確かめられた臆断《おくだん》」に過ぎないからである。われわれはここではただエピキュリアンのこれらの驚くべき偉大なる臆断を嘆美すればよい。
ルクレチウスは、かようにして、彼のいわゆる元子の何物であるかを説明した後に、エピキュリアンに対立した他の学説に対して峻烈《しゅんれつ》な攻撃を加えているのである。万物が火より成るとか、地水火風から成るとか、また金は金、骨は骨と、いわゆるホメオメリアより成るとか、そういう考えから来る困難を列挙し、また一方では自説に対するこれら他学派の持ち出すべき論難に対して勇敢に応戦している。しかし、要するに、これは、彼の元子説特に元子に第二次的属性を付与する事が不穏当であるという前提の延長であるが、しかしそれはまた今の物理学が当然の事として採用しているところである。この条を読んでいると、今の物理学者がもし昔のギリシアの学者たちと議論したとしたならば、必ず言いそうな事が数々見いだされておもしろい。
この論議の中に、熱は元子の衝突運動であるという考えや、元子排列の順序の相違だけで物の変化が生じるというような近代的の考えも見えている。
そこで、ルクレチウスは言葉を改めていう。自分はミューズの神のインスピレーションによって、以下さらに深く真理の解説をしようとする。しかしこういうめんどうなむつかしい事がらを説くには、「詩」の助けをかりなければならない。苦《にが》い薬を飲ませるには杯の縁に蜜《みつ》を塗らなければならない、と言っている。
さて、それから、空間には際限がないという事を論ずるのであるが、これは、「先には先がある」というだけの事であって、これはアインシュタインの一般相対性理論の出るまでは、素人《しろうと》も科学者も同様に考えて来た素朴的《そぼくてき》観念であって別に珍しい事はない。
次には物質総量が無限大である事を説いている。もし無限大の空間にただ有限の物質があるとしたら、物質はすべてその組成元子に分解し尽くして、もはや何物も合成され得ず、従って何物も存在し得ない。なんとならば、物質世界の保存には「かなた」からの不断の補充を要する。それには無限の物質素材を要するというのである。これは、後に述べるように、彼の考える「元子の雨」が無際涯《むさいがい》の空間の果てから地上に落下しつつある、という前提が頭にあるからの議論である。ルクレチウスが今の科学に照らして最も不利益な地位に置かれるのは、彼がここで地を平面的に考え、「上」と「下」とを重力と離れて絶対的なものに考えている事である。それで彼はこの条下で地の球形説に対して、コロンバス時代の坊さんの唱えそうな反対説を唱えている。しかし無限の空虚の中にいかにしてある「中心」が存在し、かつ支持されうるかという論難は、ニウトン以前の当時の学者には答えられなかったであろうのみならず、現在においても実は決して徹底的には明瞭《めいりょう
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