とえせいぜい幾年生き延びたところで永遠の死に対してはその余命は無に等しい。
死後に行くと言われる地獄は、実は目前の欲の世界である。これをのがるる唯一の道は万物の物理の研究である。
私はこのエゴイストの哲学についてはなんらの批評の言葉も持ち合わせない。しかし私は、現代においてもしも腹わたの奥底までも科学的にできあがった科学者がいたとしたら、少なくも彼の死に対する観念だけは、よほどこれと似たものでありはしないかを疑うものである。
以上彼の所説中で今の物理学者にとって最も興味あるものと思わるるのは、いったん成立して後に分解し離散した多数元子のある特定の集団が、たとえほとんど無限の時間の後であるとしても、再び元どおりに復活しうる機会を持つという考え、しかもそれはなんらの神の意志にもよらずして単に統計学的偶然の所産として起こりうるという考えである。これを読んだ多くの物理学者はボルツマンがそのガス論の第九十章に書き残した意味深きなぞを思い出さないわけには行かないであろう。
もう一つの注目すべき事は、この巻のみに限らないが、一般に元子の大きさが小さければ小さいほどその速度が大きいという考えが黙認されているらしく見えることである。いかなる根拠あるいは機縁によってこういう観念が生じたかはもちろん不明であるが、ともかくもこれは後代のガス論に現われたエネルギーの等分配《エクイパーテイション》の方則を少なくも質的に予想するものと見れば見られるという事である。
私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟《ひっきょう》「わかりやすい言葉に書き直した直観」であり、直観は「人間に読めない国語でしるされた科学書の最後の結論」ではないか。ルクレチウスを読みながら私はしばしばこのような妄想《もうそう》に襲われるのである。
ちなみにわが国の神官の間に伝わる言い伝えに、人間の霊魂は「妙《たえ》に円《まろ》き」たま[#「たま」に傍点]であるという考えがあるそうである。この事を私は幸田露伴《こうだろはん》博士から聞いて、この条の心や精神の元子と多少でも似た考えがわが民族の間に存した事を知り奇異の感に打たれたのである。これはギリシア語のテュモスが国語のタマシイに似ていると同じく、はたして偶然であるか、そうでないか全くわからない。
四
第四巻に移るに当たって、私は以上の三
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