感覚の基になるものであり、これが害せられると生命はなくなると説き、またこの四つのものが混合してある一つの全体を成すと言っている。
人間や動物の性情性質の相違はこの熱と精気と、空気との含有の割合によって生ずる。たとえば獅子《しし》は熱を、鹿《しか》は空気また精気を多く持っている、という筆法である。
精神は肉体によって結合され、さらに肉体を生かす。両者いずれか一を引きはなせば両者は破壊され生命は滅びる、また両者の相対的運動によって感覚が生じる。肉体の元子と精神の元子とが一つずつ対《つい》になっているというデモクリトスの説は誤りである。後者の数は前者に比してはるかに小さい、と論じる条がある。
これらの考えを基にしてルクレチウスは、精神は肉体の死とともに死滅するものであるという彼の信条を「説明」するためにおよそ二十八箇条をあげて彼の雄弁を発揮するのである。しかしこれを逐条ここで述べることは私の任務でないのみならず、いたずらに読者の倦怠《けんたい》を買うに過ぎないであろう。ただその一箇条として各種の生物に特有な性状の親から子へ遺伝する事実に論及し、そして心もまた「定まれる種子」を有する事を仮定しなければこの現象は説明し難いと言っているのは注目すべきである。またもし霊魂なるものが肉体へ突然入り込んで来るものであるとすると、一人の子供がまさに出産しようとする際には、いくつもの霊魂が産婦の枕《まくら》もとに詰めかけて、おれがおれがと争うであろうと言っているのは読者をしておのずから破顔微笑させるものがある。
さて、霊魂が母体とともに死滅してしまうとすれば、死は少しも恐ろしくなくなってしまう。ローマが勝とうがカルタゴが勝とうが、霊肉飛散した後の我れにはなんのかかわりもない。たとえわが精神の元子は元子として世界のどこかに存在していても、肉を離れて分解した元子はもはや「我れ」ではない。もっとも、現に我れを構成していたすべての元子が、測るべからざる未来において、偶然に再び元のとおりに結合して今の我れと同じものも作るような事はありうるかもしれないが、その再生した我れが、前生の我れを記憶していようとは思われない。
死後に自分の死を悲しむべき第二の我れは存しないからわが死は我れにとって悲しみでない。死とともに欲望も死ぬるから、だれも、満たされなかった望みに未練を感ずるものはない。そしてた
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