ニら》の子の勘定でもして楽しんでいるような人にはこの書はなんにもならない。また戦線の夜の野原の中を四つんばいになってしかも目かくしされたままで手探りで遺利を拾得しようとしている「落ち穂拾い」にもこれは足しにならない。要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。
 一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。学生たちは到底消化しきれないほどの栄養を詰め込まれて知識的胃病にかかっている。人は決して澱粉《でんぷん》蛋白《たんぱく》脂肪《しぼう》だけで生きて行かれるものではない。ヴィタミンが必要である。ヴィタミンだけでは生きて行かれないが、しかしヴィタミンを欠いだ栄養は壊血病を起こし脚気症《かっけしょう》を誘発する。実際現代の多くの科学の学生はこれとよく似た境遇にありはしないかと心配される。そういう学生にとってルクレチウスが確かに一種のヴィタミンの作用を生じうるであろうと考えるのである。

 以上長々しい前置きによって私は多くの読者の倦怠《けんたい》を招いたであろうと思う。しかし多数の読者を導いてこのルクレチウスの花園に入るべき小径の荊棘《けいきょく》を開くにはぜひともこれだけの露払いの労力が必要であると思った。それほどに現代科学のバベルの塔の頂上に住むわれわれは、その脚下にはるかな地上の事を忘れていると思ったからであった。
 これから私はルクレチウスの内容についてきわめて概略ながら紹介を試みようと思う。
 もちろん私は哲学史については何も知らないものであるからこの書の所説の哲学史的の意義などはよくわからない。またどこまでがデモクリトス、エピクロスの説で、どこからがルクレチウスの独創によるか、そういう考証も私の柄《がら》ではない。私はただ現代に生まれた一人の科学の修業者として偶然ルクレチウスを読んだ、その読後の素朴《そぼく》な感想を幼稚な言葉で述べるに過ぎない。この厚顔の所行をあえてするについての唯一の申し訳は、ただルクレチウスがまだおそらく一度も日本の科学者の間にこの程度にすら紹介されなかったという事である。
 ルクレチウスに関するあらゆる文献、内容に関する詳細の考証、注釈はマンローに譲りたい。
 以下ル
前へ 次へ
全44ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング