が行なわれている事実がこれに対する一つの答弁であるが、そればかりではない、もっと重要なことがある。現在同刻に他所で起こりつつある出来事の音響効果の同時放送中に、過去における別の場所の音的シーンを適当に插入《そうにゅう》あるいはオーヴァーラップさせ、あるいはまたフェード・イン、フェード・アウトさせることによって、現在のシーンの効果を支配し調節するということができるとすれば、それは蓄音機だけの場合にては決して有り得ない一つの現象を出現させることになるからである。
たとえば満州《まんしゅう》における戦況の経過に関して軍務当局者の講演がある場合に、もし戦地における実際の音的シーンのレコードを適当に插入することができれば、聴衆の実感ははなはだしく強調されるであろう。また少し極端な例を仮想してみるとすれば、たとえばフランスでナポレオンの記念祭に大統領が演説したりする際に、もしも本物のナポレオンの声や、ウォータールーの砲声や、セントヘレナの波の音のレコードが(そういうものがあったとして、それが保存されていたとして)適当に插入《そうにゅう》されたとしたら、それは実に不思議な印象を与えるであろう。それほどでなくても、たとえば議院新築落成式の日に、過去の議会におけるいろいろな故人の演説の断片を聞くことができても多少の感慨はあるであろう。
もしも、レコードと現場の放送との継ぎ目を自由に、ちょうどフィルムをつなぐようにつなぐことができれば、すでに故人となった名優と現に生きている名優とせりふのやり取りをさせることもできるであろう。九代目X十郎と十一代目X十郎との勧進帳《かんじんちょう》を聞く事も可能であり、同じY五郎の、若い時と晩年との二役を対峙《たいじ》させることも不可能ではなくなる。
もしまた、いろいろな自然の雑音を忠実に記録し放送することができる日が来れば、ほんとうに芸術的な音的モンタージュが編成されうるであろうが、現在のような不完全な機械で、擬音のほうがかえって実際に近く聞こえるような状態では到底理想的なものはできないであろう。しかし、こういう機械的の欠点はだんだんに除去されるであろうから、いつかはここで想像されたような音響のモンタージュによる立派な詩や絵のようなものが創作されて一般の鑑賞を受ける日が来るであろうと思われる。
こういうものができるようになった場合に、その「音画
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