の文字がそうであり、短歌|俳諧《はいかい》がそうであり、浮世絵がそうであると言い、また彼の生まれて初めて見たカブキで左団次《さだんじ》や松蔦《しょうちょう》のする芝居を見て、その演技のモンタージュ的なのに驚いたという話である。これは近ごろ来朝したエシオピアの大使が、ライオンを見て珍しがらずに、金魚を見て驚いた話ともどこか似たところのある話である。また日本の浮世絵芸術が外国人に発見されて後に本国でも認められるようになった話ともやはり似ていて、はなはだ心細い次第である。
それはとにかくモンタージュ芸術技法は使用するメディアムが何であっても可能である。たとえば食物でも巧みに取り合わせられた料理は一種のモンタージュ芸術と言われなくもない。そうだとすれば、ラジオによる音響放送の素材の適当なる取り合わせ、配列によって一種の芸術的モンタージュ放送を創作することが充分可能なわけであろう。
もっとも、従来行なわれたラジオドラマふうのものの中には、やや前記のモンタージュに類する要素をいくぶんか備えたと思われるものもあるかもしれない。それはその創作者にそういうはっきりした意図はなかったにしろ、自然にそれと同様の効果をねらったものがあったかもしれない。しかし、もしこういう明白な意識を設定した上でその創作をするとすれば、かなり新しくておもしろい試みがいくらも行なわれうるのではないかと思われるのである。
ただ一つラジオの場合に他の場合と区別しなければならない本質的の相違のある点は、ラジオはだいたい現在の瞬間にある場所で発している音楽をほとんど同時に他の場所に放送しているというところにある。それゆえに、いろいろな時にいろいろな場所で進行した音響的シーンを勝手な順序や間隔をもってモンタージュ的に配置することができないように見える。しかしこれには蓄音機というものがあって、その盤がちょうど映画のフィルムのごとく記録的に保存されうるのであるから、これを使えばかなりいろいろの勝手な技法を活用することができてもいいわけである。
そう言えば、全部をレコードにして編集し、その編集の結果をまた一つづきのレコードとしてしまえば、結局ラジオの必要はなくなるのではないかという議論が持ち出されるであろう。それはある意味では実際そうであるが、しかし必ずしもそうばかりではない。第一に、蓄音機の存在にかかわらず音楽放送
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