いって見たが、見たものの記憶はもう雑然として大抵消えてしまっている。ツェペリン飛行船が舞台の真中に着陸する、その前でロココ時代の宮庭と現代の世界との混合したような夢幻の光景が渦を巻いたといったような気がするだけである。ジァンペートロというバリートンが当時異常な人気を呼んでいて、なんでもある貴族の未亡人から、自分の願いを容れてくれなければ自殺するという脅迫を受けて困っているというような噂が新聞で持《も》て囃《はや》されたが、しかしそれは単に宣伝のための空ごとだというゴシップもあった。どんな優男《やさおとこ》かと思っていたらそれが鬼将軍のような男性美の持主であったのである。例により夜会服姿の黒奴に扮《ふん》した舞踊などもあったが、西洋人ばかりの観客の中に交じった我々少数の有色人種日本人には、こうしたニグロの踊りは決して愉快なものではなかった。
 パリの下宿はオペラの近くであって、自分の借りていた部屋の窓から首を出して右を見ると一、二町先の突きあたりにフォリー・ベルジェアの玄関が見えた。それほど近所に居ながらこれも這入《はい》ったのはただ一度だけであったし、見たものの記憶の薄れたことも同前で
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