、この二つのものを別々でなく同時に作用させると両方の作用が単に加算的《アディチブ》でなくてそれ以上に有効だということである。云わば一と一とで二以上になるというのである。お互いにセンシタイズするような作用をするらしい。
 人間が知識を摂取する場合でもよく似たことがある。自分に最も必要な知識は頭にしみやすく、あまり役に立たぬようなものは一度呑込んでもすぐに排出し忘れてしまう傾向がある。また甲乙二つの知識が単独には大した役に立たないのが二つ一処《いっしょ》になったおかげで大変な役に立ったという例はいくらでもある。
 そういう考えからすれば、あまり純粋な化学薬品のような知識を少数に授けるよりは、草根木皮や総菜のような調剤と献立を用いることもまた甚だ必要なことと思われて来る。つまりここで謂《い》うレビュー式教育も甚だ結構だということになるのである。
 そうかと云ってまた無理やりに嫌がる煎薬《せんやく》を口を割って押し込めば利く薬でももどしてしまい、まずい総菜を強《し》いるのでは結局胃を悪くし食慾を無くしてしまうのがおちである。下手なレビューを朝から夜中まで幕なしに見せられるようなものであろうと思われる。
 熱で渇いた口に薫りの高い振出《ふりだ》しをのませ、腹のへったものの前に気の利いた膳をすえ、仕事に疲れたものに一夕の軽妙なレビューを見せてこそ利き目はあるであろう。
 雑誌や新聞ならば読みたいものだけ読んで読みたくないものは読まなければよいのであるが、学校の教育ではそういう自由は利かない。それをすれば落第させられる。無拠《よんどころなく》教程を鵜呑《うのみ》にする結果は知識に対する消化不良と食慾不振である。
 教えるためには教えないことが肝心である。もう一杯というところで膳を取り上げ、もう一と幕と思うところで打出しにするという「節制」は教育においてもむしろ甚だ緊要なことではないか。この点について世の教育者、特に教科書の内容に関する一切の膳立ての任に当る方々の考慮を煩わしたいと思う次第である。
 教育者はそういう点から考えても時々はレビューでも映画でも大衆雑誌でも、およそ現代の少青年の心を捕える限りの民衆教育機関を見学し研究し、そうして、そういうものの如何なる因子が民衆に働きかけるかを分析して、その分析の結果を各自の仕事の上に応用すべきではないかと思われる。現代民衆の心理を無視した学者達が官庁の事務机の上で作り上げた教程のプログラムは理論上如何に完全に出来ていても、活きて動いている時代の人間の役に立つ教育には少しどうかと思われるのである。

 庭の霧島つつじが今盛りで、軒の藤棚の藤も咲きかけている。
 あらゆるレビューのうちで何遍繰返し繰返し観ても飽きない、観ればみる程に美しさ面白さの深まり行くものは、こうした自然界のレビューである。この面白いレビューの観賞を生涯の仕事としている科学者もあるようである。ずいぶん果報な道楽者だとも云われるであろう。
 ここまで書いて筆を擱《お》くつもりでいたら、その翌日人に誘われて国宝展覧会を観に行った。古い絵巻物のあるものを見ていたらその絵の内容とその排列に今のレビューと実によく似たものがあることに気が付いた。やはり天《あめ》が下《した》に新しいものは一つもないと思ってひとりで感心して帰って来たのであった。[#地から1字上げ](昭和九年六月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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