うな教科書は明らかに汽車弁当に劣ること数等であろう。
 一体「教えるためには教えない術が必要である。」というパラドックスが云わば云い得られなくはない。
 中学校でS先生から生物学の初歩を教わったときの話である。主に口授を筆記するのであったが、たまたま何かの教材の参考資料として、英国製で綺麗な彩色絵の上に仮漆《ワニス》を引いた掛図を持出し、その中のある図について説明をした。その図以外に色々珍しい何だか分からないものの絵が沢山あってそれが吾々の強い好奇心を刺戟したが、勿論講義に関係のないそれらの絵については先生は一言も触れなかった。その不可解な絵が妙に未知の不思議の世界に対する知識欲を刺戟しそれがいつとなく植物学全体への興味を煽《あお》るのであった。もしもあの時に先生が掛図の色々の絵の一つ一つを残らず通り一遍の簡単な説明で撫《な》でて通ったのであったら、効果はおそらくまるで反対のものになりはしなかったかと想像される。
 教科書に挿入された色々な綺麗な図版などはおそらくこのS先生の掛図と同様な効果を狙ったものかもしれないが、これは失敗である。何故かと云えばS先生のは一と口うまいものを食わせておいて、その外に色々の旨そうなものをちらと見せたきり引込めてしまう流儀であるが、教科書は一向うまくない汽車弁当のおかずの品々を無理やりに口の中へ押し込むような流儀だからである。
 光の反射屈折に関する基礎法則を本当によく呑込ませることに全力を集注し、そうしてそれを解説するに最適切な二、三の実例を身にしみるように理解させれば、その余の複雑な光学器械などは、興味さえあらば手近な本や雑誌を見てひとりで分かることである。何も中学校で一々無理に教える必要はないと思われる。電流と磁気との基礎的な関係をゆっくり丁寧になるべく簡単な実験で十分徹底的に諒解させれば、ダイナモやモーターの色々な様式などは三文雑誌にでも譲って沢山であろう。しかし、そういう一番肝心な基礎的なことがよく分からないで枝葉のデテールをごたごたに暗記して、それで高等学校の入学試験をパスし、大学の関門を潜り、そうして極めてスペシァルなアカデミックな教育を受けて天晴《あっぱ》れ学士となり、そうしてしかも、実はその専門の学問の一番エレメンタリーな第一義がまるで分かっていないというスペシァリストは愚か大家さえ出来るという実に不思議な可能性が成立するのである。
 物理のような基礎科学の教科書が根本の物理そのものはろくに教えないで瑣末《さまつ》な枝葉の物理器械や工学機械のカタログを暗記させるようなものでは困ると思う。レビュー式でも本当に面白いレビューならまだしも、さっぱり面白くない百景を並べたのでは全く生徒が可愛相《かわいそう》である。結局は物理学そのものが嫌いになるだけであろう。
 レビュー見学のノートから脱線してつい平生胸に溜まっていた教科書の不平をこぼしてしまったが、こういう脱線もまた一つのレビュー的随感録の一様式中の一景として読者の寛容を願いたいと思う。
 政府の統制の下に組織された教育のプログラムがレビュー式であるくらいだから、民間の営利機関の手に成る大衆向けの教育機関であるところの雑誌や新聞のレビュー式ないしは汽車弁当式であることは当然である。たまたまレビュー式でない雑誌はあるが、そういうのは特別な関係の誌友類似の予約講読者のあるものに限るので、一般大衆を相手にするものは出来るだけレビュー式編輯法を採らなければ経営が困難だということである。誠に尤もな次第と思われる。
 一体レビュー式ということには何もそれ自身に悪い意味は少しもないはずである。善用すればむしろ非常に好い効果をあげ得べき可能性を多分にもっているものである。
 近頃ある薬学者に聞いた話であるが、薬を盛るのに、例えば純粋な下剤だけを用いると、どうも結果は工合よく行かない、しかし下剤とは反対の効果を生じるような収斂剤《しゅうれんざい》を交ぜて施用《しよう》すると大変工合がよいそうである。つまり人間の体内に耆婆扁鵲《ぎばへんじゃく》以上の名医が居て、それが場合に応じて極めて微妙な調剤を行って好果を収めるらしいというのである。「それじゃ結局昔の草根木皮を調合した万病の薬が一番合理的ではないか」と聞いたら「まあ、そんなものだね」という返事であった。自分に必要なものを選択して摂取し、不用なもの有害なものを拒否し排出するのが、人間のみならずあらゆる生物の本性だということは二千年前のストア哲学者が既に宣言していることである。生物が無生物とちがうのもこの点においてである。
 これも近頃聞いた話であるが、稲の生長を助けるアゾトバクテルという黴菌《ばいきん》がある。また同じような作用をする原生動物《プロトゾア》がある。ところが最近の日本の学者の研究によると
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