トンからマウント・ウェザーの気象台へ見学に出かけた田舎廻りのがたがた汽車はアメリカとは思われない旧式の煤《すす》けた小さな客車であったが、その客車が二つの仕切りに区分されていて、広い方の入口には「ホワイト」、狭い方には「カラード」という表札が打ってある。自分は少し考え込んだが、どう考えてもホワイトではないからと思ってカラードの方に這入《はい》った、そうして真黒なレデーの一人と相乗りで淋しい田舎の果へと揺られて行った。
 アメリカでもプロフェッサー達はみんな品のいい、そうしてヨーロッパの国々の多くのプロフェッサーよりもさっぱりした感じの人が多かったが、これらの先生達は誰もチューインガムを噛んではいなかった。
 ボストンで、とあるチョプスイ屋へはいって夕飯を喰ったら、そこに日本人のボーイが居て馴れ馴れしく話しかけた。帰りにチップをいつもより奮発して出したら突返された。そうして、自分はここではボーイをしているが日本へ帰れば相当な家もあって、相当な顔のある身分であると云ってひどく腹を立てた。すっかり憂鬱になって、そこを出ると、うしろから来たアメリカ人が「ビグ、ジャーップ」と云って唾をはいた。見るとやはりチューインガムを噛んでいるのであった。
 ニューヨークを立つときにペンシルベニア・ステーションで、いきなり汽車に飛び乗ろうとすると、車掌に叱り飛ばされた。「レデース・ファースト」と云うのであった。なるほど自分の側《そば》にお婆さんが一人立っていた。この車掌もやはりチューインガムを噛んでいたような気がする。あるいはそうでなかったかもしれないが、今考えてみると、どうしてもそうでなくては勘定が合わないような気がするのである。
 ナイヤガラやシカゴでは別段にこれというチューインガムのエピソードはなかったように記憶するが、これはおそらく、自分の神経がこの脅威に対していくらか麻痺しかけたためであったかもしれない。
 これは今から二十年前の昔話である。現在のアメリカでチューインガムがどれだけ流行しているかは知らないが、映画などの中に時々これが現われるし、モーリス・シュヴァリエー主演のチューインガムを主題とした映画が昨年あたり東京で封切されたくらいであるから、おそらく今でも相当の命脈を保っているものと考えてさしつかえはないであろう。これが日本でいつ頃から流行しだしたかは知らないが、自分の注意を引くようになったのは近頃のことである。
 チューインガムは、自分には、アメリカのヤンキーズムの象徴のように思われて仕方がない。アメリカ文化の特徴がことごとくこの奇妙な物質の中に集中され包含されているような気がするのであるが、その理由は分らない。
 アメリカ人には勉強家努力家がなかなか多い。ギャングも居るが真面目な努力家も多い。努力の余波が顎《あご》の筋肉に伝わって何かしら噛んでいたくなるのかとも考えてみた。自分の知っている老人で、機嫌が悪くて怒りたいのを我慢しているときに、入歯を止みなく噛み合わせるのが居た。またある精力家努力家で聞えた医者で患者を診察しながら絶えず奥歯を噛み合わせる人がある。昔から「歯噛《はが》みをなして」というのは腹を立てた人の形容ということに相場がきまっているくらいである。ともかくものんびりした気持やぽかんとした気持と、この歯噛みの動作とがよほど縁の遠いものであるだけはたしかであろう。
 心理学者の説によると、感情があとで動作がさきだということである。怒るという動作をしなければ怒りの感情は発育を遂げることが出来ずに消えてしまうそうである。この理窟を素人流《しろうとりゅう》に応用すると、歯を噛み合わせる動作によって緊張努力の気持が幾分かは助長されるという効果があるのかもしれない。
 顎の張った人は意志が強いというから、始終チューインガムを噛んで顎骨でも発育したらあるいは意志が強くなるというのかもしれない。
 こう考えて来ると少なくも彼《か》の税関吏の場合はやや従前とはちがった光の下に見直すことが出来る。税関吏の仕事は要するに一般にはあまり面白い仕事でないであろう。それを忠実に遂行《すいこう》するに要する努力の興奮剤としてチューインガムを使用しているとすれば、いくらか尤もらしく思われて来るのである。しかし銀座を歩いている二人の洋装婦人のチューインガムが何を意味するかはどうしても分らない。
 クーシューというフランス人は『アジアの詩人と賢人』と題する書物の一節において、およそ世界の中で日本人とアメリカ人と程にちがった国民は先ずないという意味のことを云っている。これには自分も同感であった。しかし事実において服装でも食物でも建物でもまたスポーツでもジャズでもチューインガムでも、現在|滔々《とうとう》として日本の社会のあるレヴェルを押し流しているものはこ
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