う一ぺん薬屋にわけを話して買って来たのだということであった。
 そのうちにN教授とM教授がやって来た。続いてN国領事のバロン何某と中年のスカンジナビア婦人が二人と駆けつけて来た。婦人たちがわりに気丈でぎょうさんらしく騒がないのに感心した。
 室の片すみのデスクの上に論文の草稿のようなものが積み上げてある。ここで毎日こうして次の論文の原稿を書いていたのかと思って、その一枚を取り上げてなんの気なしにながめていたら、N教授がそれに気づくと急いでやって来て自分の手からひったくるようにそれを取り上げてしまった、そうしてボーイを呼んでその原稿いっさいを紙包みにしてひもで縛らせ、それを領事に手渡しした。そうして、それを封印をして本国大学に送ってもらいたいというようなことを厳粛な口調で話していた。
 領事のほうからは、本国の家族から事後の処置に関する返電の来るまで遺骸《いがい》をどこかに保管してもらいたいという話があって、結局M教授の計らいでM大学の解剖学教室でそれを預かることになった。
 同教室に運ばれた遺骸に防腐の薬液を注射したのは、これも今は故人になったO教授であった。その手術の際にO教授が、露出された遺骸の胸に手のひらをあてて Noch warm ! と言って一同をふり向いたとき、領事といっしょにここまでついて来ていた婦人の一人の口からかすかなしかし非常に驚いたような嘆声がもれた。O教授はしかし「これはよくあるポストモルテムの現象ですよ」と言い捨てて、平気でそろそろ手術に取りかかった。
 葬式は一番町《いちばんちょう》のある教会で行なわれた。梅雨晴《つゆば》れのから風の強い日であって、番町へんいったいの木立ちの青葉が悩ましく揺れ騒いで白い葉裏をかえしていたのを覚えている。自分は教会の門前で柩車《きゅうしゃ》を出迎えた後霊柩に付き添って故人の勲章を捧持《ほうじ》するという役目を言いつかった。黒天鵞絨《くろびろうど》のクションのまん中に美しい小さな勲章をのせたのをひもで肩からつり下げそれを胸の前に両手でささげながら白日の下を門から会堂までわずかな距離を歩いた。冬向きにこしらえた一ちょうらのフロックがひどく暑苦しく思われたことを思い出すことができる。
 会堂内で葬式のプログラムの進行中に、突然堂の一隅《いちぐう》から鋭いソプラノの独唱の声が飛び出したので、こういう儀式に立ち会った経験をもたない自分はかなりびっくりした。あとで聞いたら、その独唱者は音楽学校の教師のP夫人で、故人と同じスカンジナビアの人だという縁故から特にこの日の挽歌《ばんか》を歌うために列席したのであったそうである。ただその声があまりに強く鋭く狭い会堂に響き渡って、われわれ日本人の頭にある葬式というものの概念に付随したしめやかな情調とはあまりにかけ離れたもののような気がしたのであった。
 遺骸《いがい》は町屋《まちや》の火葬場で火葬に付して、その翌朝T老教授とN教授と自分と三人で納骨に行った。炉から引き出された灰の中からはかない遺骨をてんでに拾いあつめては純白の陶器の壺《つぼ》に移した。並みはずれに大きな頭蓋骨《ずがいこつ》の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒なアスファルトのような色をして縮み上がっていた。
 N教授は長い竹箸《たけばし》でその一片をつまみ上げ「この中にはずいぶんいろいろなえらいものがはいっていたんだなあ」と言いながら、静かにそれを骨壺《こつつぼ》の中に入れた。そのとき自分の眼前には忽然《こつぜん》として過ぎし日のK大学におけるB教授の実験室が現われるような気がした。
 大きな長方形の真空ガラス箱内の一方にB教授が「テレラ」と命名した球形の電磁石がつり下がっており、他の一方には陰極が插入《そうにゅう》されていて、そこから強力な陰極線が発射されると、その一道の電子の流れは球形磁石の磁場のためにその経路を彎曲《わんきょく》され、球の磁極に近い数点に集注してそこに螢光《けいこう》を発する。その実験装置のそばに僧侶《そうりょ》のような黒頭巾《くろずきん》をかぶったB教授が立って説明している。この放電のために特別に設計された高圧直流発電機の低いうなり声が隣室から聞こえて来る。
 そんな幻のような記憶が瞬間に頭をかすめて通ったが、現実のここの場面はスカンジナビアとは地球の反対側に近い日本の東京の郊外であると思うと妙な気がした。
 それからひと月もたって、B教授の形見だと言ってN国領事から自分の所へ送って来たのは大きな鋳銅製の虎《とら》の置き物であった。N教授の所へは同じ鋳物の象が来たそうである。たぶんみやげにでもするつもりでB教授が箱根《はこね》あたりの売店で買い込んであったものかと思われた。せっかくの形見ではあるがどうも自分の趣味に合わないので、押し入れの中にしまい込んだ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング