ままに年を経た。大掃除《おおそうじ》のときなどに縁側に取り出されているこの銅の虎を見るたびに当時の記憶が繰り返される。大掃除の時季がちょうどこの思い出の時候に相当するのである。
S軒のB教授の部屋《へや》の入り口の内側の柱に土佐《とさ》特産の尾長鶏《おながどり》の着色写真をあしらった柱暦のようなものが掛けてあった。それも宮《みや》の下《した》あたりで買ったものらしかったが、教授のなくなった日、室のボーイが自分にこの尾長鶏を指さしながら「このお客さんは、いつも、世の中にこのくらい悲惨なものはないと言っていましたよ」と意味ありげに繰り返して話していた。しかしなぜ尾長鶏がそんなに悲惨なものとB教授に思われたか、これが今日までもどうしても解けない不思議ななぞとして自分の胸にしまい込まれている。
ボーイについて思い出したことがもう一つある。やはりこの事変の日に刑事たちが引き上げて行ったあとで、ボーイが二三人で教授のピストルを持ち出して室の前の庭におりた。そうして庭のすぐ横手の崖《がけ》一面に茂ったつつじの中へそのピストルの弾《たま》をぽんぽん打ち込んで、何かおもしろそうに話しながらげらげら笑っていた。つつじはもうすっかり散ったあとであったが、ほんの少しばかりところどころに茶褐色《ちゃかっしょく》に枯れちぢれた花弁のなごりがくっついていたことと、初夏の日ざしがボーイのまっ白な給仕服に照り輝き、それがなんとも言えないはかない空虚な絶望的なものの象徴のように感ぜられたことを思い出すのである。
[#地から3字上げ](昭和十年七月、文学)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年5月18日作成
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