がさすように思うた。
今年の夏、荒物屋には幼い可愛い顔が一つ増した。心よく晴れた夕方など、亭主はこの幼時を大事そうに抱いて店先をあちこちしている。近所のお内儀《かみ》さんなどが通りがかりに児をあやすと、嬉しそうな色が父親の柔和な顔に漲る。女房は店で団扇《うちわ》をつかいながら楽しげにこの様を見ている。涼しい風は店の灯を吹き、軒に吊した籠や箒《ほうき》やランプの笠を吹き、見て過ぐる自分の胸にも吹き入る。
自分の境遇にはその後何の変りもない。雨が降ると風呂に行く。暗闇阪の街燈には今でもやもりが居るが、元のような空想はもう起らぬ、小さな細長い黒影は平和な灯影に眠っているように思われるのである。[#地から1字上げ](明治四十年十月『ホトトギス』)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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