荒物屋の不幸を見聞きするにつけて、恐ろしい空想が悪夢のように心を襲う。黒ずんだ血潮の色の幻の中に、病女の顔や、死んだ娘の顔や、十年昔のお房の顔が、呪の息を吹くやもりの姿と一緒に巴《ともえ》のようにぐるぐるめぐる。
 二、三日経て後の夕方、荒物屋の座敷には隣家の誰れ彼れが大勢集まって酒を酌んでいた。畳屋も来ている、八百屋の顔も見える。あかるいランプの光は人々の赤い顔に映えて何となく陽気に見える。台所では隣の菓子屋の主婦が忙がしそうに立働いている。知らぬ人が見たら祝いの酒宴とも見えるだろう。しかし病めるこの家の主婦は前夜に死んだのである。いまわと云う時に、死んだ娘の名を呼んだとも云う。
 養子に離れ、娘にも妻にも取り残されて、今は形影|相弔《あいちょう》するばかりの主人は、他所目《よそめ》には一向悲しそうにも見えず、相変らず店の塵をはたいている。台所の方は近所の者などがかわるがわる世話をしているようであった。それから間もなく新しい女が店に坐るようになった。下宿の主婦は、荒物屋には若い好い後妻が来たと喜んで話した。自分も新しい主婦の晴れやかな顔を見て、何となくこの店に一縷《いちる》の明るい光
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