間にか現われてガラスに貼り付けたように身動きせぬ。朝出がけに見るともう居ない。夜一夜あのままに貼り付いていたのが朝の光と共に忽然《こつぜん》と消えるのでないかと云うような事を考えた事もある。
 暗闇阪を下りつめた角《かど》に荒物屋がある。この店はちょうど自分が今の処に移る少し前に新しく出来たそうである。毎日通り掛りに店の様も見れば、また阪の方に開いた裏口の竹垣から家内の模様もいつとなく知られる。主人はもう五十を越した、人の好さそうな男であるが、主婦はこれも五十近所で、皮膚の蒼黄色い何処となく険のあるいやな顔だと始め見た時から思った。主人夫婦の外には二十二、三の息子らしい弱そうな脊の高い男と、それからいつも銀杏返《いちょうがえ》しに結《ゆ》うた十八、九の娘と、外には真黒な猫が居るようであった。亭主《ていしゅ》と息子は時々店の品物に溜まる街道の塵をはたいている。主婦や娘は台所で立働いているのを裏口の方から見かける事があるが、一体に何処となく陰気なこの家内のさまは、日を経るに従うて自分の眼に映る。主婦は時々鉢巻をして髪を乱して、いかにも苦しそうに洗濯などしている事がある。流し元で器皿を洗って
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