大名邸の高い土堤の上に茂り重なる萩《はぎ》青芒《あおすすき》の上から、芭蕉の広葉が大わらわに道へ差し出て、街燈の下まで垂れ下がり、風の夜は大きな黒い影が道一杯にゆれる。かなりに長いこの阪の凸凹道にただ一つの燈火とそのまわりの茂りのさまは、たださえ一種の強い印象を与えるのであるが、一層自分の心を引いたのはその街燈に止った一疋の小さいやもり[#「やもり」に傍点]であった。汚れ煤けたガラスに吸い付いたように細長いからだを弓形《ゆみなり》に曲げたまま身じろきもせぬ。気味悪く真白な腹を照らされてさながら水のような光の中に浮いている。銀の雨はこの前をかすめて芭蕉の背をたたく。立止って気をつけて見ると、頭に突き出た大きな眼は、怪しいまなざしに何物かを呪うているかと思われた。
始めてこの阪のやもりを見た時、自分はふとこんな事を思い出した。自分が十九歳の夏休みに父に伴われて上京し麹町《こうじまち》の宿屋に二月ばかり泊っていた時の事である。とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更《ふ》けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴《さ》える。外には程近い山王台《さんのうだい》の森から軒の板庇
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