である。変だと思っているうちに、そこに重みのある或《あ》るものが動くのを感じたので、はじめて気がついていきなり茶の間へ飛び出し、奇妙な声を出し始めたのだそうである。
 窮鳥はふところに入る事があり、窮鼠《きゅうそ》は猫《ねこ》をかむ事があるかもしれないが、追われたねずみが追う人の羽織《はおり》の裏にへばりつくという事はあまりこれまで聞いた事がなかった。しかしあとになって考えてみると、締め切った三畳の空間からねずみが一匹消え去る道理はなかった。仮定的な長押《なげし》の穴はそれっきり確かめてもみないが、おそらくほんとうの穴でなかったろうし、たとえ穴であってもその背面には通っていない事が少し考えれば家の構造の上からすぐわかるわけになっていた。それでだれかの着物に隠れているという事は始めから自明的にわかりきった事であったのである。
 それにしても、羽織の裏にしがみついて人間と背中合わせにぶら下がったままで十分以上も動かないでいたねずみの心持ちがわからない事の一つである。極度の恐怖が一部の神経を麻痺《まひ》させて仮死の状態になっていたのか、それとも本能的の知恵でそうしていたのか、おそらく後者と前
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