れに台所で皿鉢《さらばち》のかち合う音が聞こえても三毛は何も知らずに寝ていた。おそらくまだねずみというものを見た事のない彼女の本能はまだ眠っているのだろうと思われた。
 あんまりいじめると、もうどこかへやってしまうとか、もとの家へ返してしまうとかいうおどかしの言葉が子供らの前で繰り返されていた。とうとう飼い主の家に相談して一両日静養させてやる事にした。
 猫《ねこ》がいなくなるとうちじゅうが急にさびしくなるような気がした。おりから降りつづいた雨に庭へ出る事もできない子供らはいつになくひっそりしていた。
 いつもは夜子供らが寝しずまった後に、どうかすると足音もしないで書斉にやって来て机の下からそっと私の足にじゃれるのを、抱き上げてひざにのせてやると、すぐに例のゴロゴロいう音を出すのであったが、その夜はもとよりいないのだから来るはずはなかった。仕事がすんでゆっくり煙草《たばこ》をすいながら、静かな雨の音を聞いているうちに妙な想像が浮かんで来た。三毛がほんとうにどこかへ捨てられて、この雨の中をぬれそぼけてさまよい歩いている姿が心に描かれた。飢えと寒さにふるえながらどこかのごみ箱のまわりでもうろうろしている。そして知らない人の家の雨戸をもれる燈光を恋しがって哀れな声を出して鳴いていそうな気がした。
 翌日の夕方迎えにやって連れて来たのを見るとたった二日の間に見違えるようにふとっていた。とがった顔がふっくりして目が急に細くなったように見えた。目のまわりにあったヒステリックなしわは消えておっとりした表情に変わっていた。どういう良い待遇を受けて来たのだろうというのが問題になった。親の乳でも飲んだためだろうという説もあった。
 夏も盛りになって、夕方になると皆が庭へ出た。三毛もきっとついて来た。かつてのら猫の遊び場所であったつつじの根もとの少しくぼんだ所は、何かしらやはりどの猫《ねこ》にも気に入ると見えて、ボールを追っかけたりして駆け回る途中で、きまったようにそこへ駆け込んだ。そして餌《え》をねらう猛獣のような姿勢をして抜き足で出て来て、いよいよ飛びかかる前には腰を左右に振り立てるのである。どうかすると熊笹《くまざさ》の中に隠れて長い間じっとしていると思うと、急に鯉《こい》のはね上がるように高くとび出して、そしてキョトンとしてとぼけた顔をしている事もある。どうかすると四つ足を両方に
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