ちがった形で日常にわれわれの周囲のどこかに起こっていることなのである。その事が善《よ》いとか悪いとかいう批判を超越して実際にこの世の中に起こっている事実なのである。
 握り飯と柿《かき》の種の交換といったような事がらでも毎日われわれの行なっていることである。月謝を払って学校へ行くのでも、保険にはいるのでもそうである。お寺へ金を納めて後生を願うのでもそうであり、泥棒《どろぼう》の親分が子分を遊ばせて食わせているのでもそうである。それが善い悪いは別としてこの世の事実なのである。
 さるのような人もありかにのような人もあるというのも事実であって、それはこの世界にさるがありかにがある事実と同じような事実である。さるなどというもののあるのはいったい不都合だと言って憤慨してみたところで世界じゅうのさるを絶滅することはむつかしい。かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂《はち》やいが栗《ぐり》や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあん石が飛び出して来
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