しをすることもできるのである。重力の講義をする物理学の先生が、重力は時々人殺しをする不都合なものであると言って生徒を訓戒したらそれは滑稽《こっけい》を通り越してしまった狂気の沙汰《さた》であろう。しかし、おとぎ話に下手《へた》な評注を加えるのはほとんどこれに類した滑稽に堕しうる可能性がある。
これに関連して思うことは今日の普通教育のしかたに共通した一種の器械的な形式主義がありはしないかということである。昔の小学校の先生などとちがってあまりに立派な教育者としての素養があり過ぎるために、またその上に文部省の監督があまりに行き届き過ぎるために教場における授業が窮屈で煩瑣《はんさ》な鋳型にはいってしまって、その結果は自由に広大であるべきものを極端に制限してしまっているのではないかという疑いがある。たとえば小学校の理科の教程といったようなものを見ても、その膳立《ぜんだ》てが立派であると同時に料理の種がすっかり限定されてしまって、生徒はそれだけを食って満足するが、他に食物のあることをいっさい忘却してしまう。そうして、今度ひとりで旅に出ると宿屋の食膳《しょくぜん》のおかずの食い方がわからないといったような風《ふう》があるのではないか。
一本の稲の穂を教材とするのでも、一生懸命骨を折って三日も四日も徹夜して教程をこしらえてかかるからかえっていけないではないかと思う。不用意に取って来た一草一木を机上に置いて一時間のあいだ無言で児童といっしょにひねくり回したり虫めがねで見たりするほうが場合によってははるかに有効な理科教育になるということもありはしないか。先生から押しつけられた植物学は十|分《ぷん》も運動場ではね回った後には、もうすっかり忘れてしまうかもしれないが、一時間植物とにらめくらをしたというそのことの効果は生涯《しょうがい》に残るということが可能である。
おとぎ話も植物の標本もわれわれに教うるものは人間と自然との事実である。われわれはその事実を正しく認識するのが第一である。先生は黙って児童とともにその事実を熟視すればそれで充分ではないかと思うのである。
われわれの子供の時分にはおとぎ話はおとぎ話としてなんらの注釈なしに教わった。そうして実に同じ話を何十回何百回も繰り返して教わったものである。そうしてそれらの話の中に含まれている事実と方則とがいつとなく自然自然と骨肉の間にしみ込んでしまって、もはやもとの形は少しも残らなくなっているが、しかし実際はそれらのものの認識がわれわれのからだのすみからすみまで行き渡ってわれわれの知恵の重要な成分をなしているのである。もしもこれらのおとぎ話を、尻《しり》の曲がったごうなの殻《から》にでも詰め込んで丸のみにさせられていたのであったら、とうの昔に体外に排泄《はいせつ》されてどこかよその畑の肥料にでもなっていたことであろうと思う。
[#地から3字上げ](昭和八年十一月、文芸春秋)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
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