をかける山鳩《やまばと》や樫鳥《かしどり》になってしまうのである。
こういう飛行機の操縦をするいわゆる鳥人の神経は訓練によって年とともに次第に発達するであろう。世界の人口の三分の一か五分の一かがことごとくこの鳥人になってしまったとしたら、この世界はいったいどうなるであろうか。
昔の日本人は前後左右に気を配る以外にはわずかにとんびに油揚《あぶらげ》をさらわれない用心だけしていればよかったが、昭和七年の東京市民は米露の爆撃機に襲われたときにいかなる処置をとるべきかを真剣に講究しなければならないことになってしまった。襲撃者はとんび以上であるのに襲撃される市民は芋虫以下に無抵抗である。
ある軍人の話によると、重爆撃機には一キロのテルミットを千個|搭載《とうさい》しうるそうである。それで、ただ一台だけが防御の網をくぐって市の上空をかけ回ったとする。千個の焼夷弾《しょういだん》の中で路面や広場に落ちたり川に落ちたりして無効になるものがかりに半分だとすると五百か所に火災が起こる。これはもちろん水をかけても消されない火である。そこでもし十台飛んで来れば五千か所の火災が突発するであろう。この火事を呆然《ぼうぜん》として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請け合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業になんらかの方法で手を貸しうると仮定すると、四十万人の手で五千か所の火事を引き受けることになる。すなわち一か所につき八十人あてということになる。さて、なんの覚悟もない烏合《うごう》の衆の八十人ではおそらく一坪の物置きの火事でも消す事はできないかもしれないが、しかし、もしも充分な知識と訓練を具備した八十人が、完全な統制のもとに、それぞれ適当なる部署について、そうしてあらかじめ考究され練習された方式に従って消火に従事することができれば、たとえ水道は止まってしまっても破壊消防の方法によって確実に延焼を防ぎ止めることができるであろうと思われる。
これはきわめて大ざっぱな目の子勘定ではあるが、それでもおおよその桁数《けたすう》としてはむしろ最悪の場合を示すものではないかと思われる。
焼夷弾《しょういだん》投下のためにけがをする人は何万人に一人ぐらいなものであろう。老若のほかの市民は逃げたり隠れたりしてはいけないのである。空中襲撃の防御は軍人だけではもう間に合わない。
もしも東京市民があわてて逃げ出すか、あるいはあの大正十二年の関東震災の場合と同様に、火事は消防隊が消してくれるものと思って、手をつかねて見物していたとしたら、全市は数時間で完全に灰になることは確実である。昔の徳川時代の江戸町民は長い経験から割り出された賢明周到なる法令によって非常時に処すべき道を明確に指示され、そうしてこれに関する訓練を充分に積んでいたのであるが、西洋文明の輸入以来、市民は次第に赤ん坊同様になってしまったのである。考えるとおかしなものである。
何か月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れにからすうりの花に集まる蛾《が》のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落とすにはうちの猫《ねこ》では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼みになりそうもない品物である。何か空中へ莫大《ばくだい》な蜘蛛《くも》の網のようなものを張ってこの蛾を食い止めるくふうは無いものかと考えてみる。あるいは花火のようなものに真綿の網のようなものを丸めて打ち上げ、それが空中でぱっとからすうりの花のように開いてふわりと敵機を包みながらプロペラにしっかりとからみつくというようなくふうはできないかとも考えてみる。蜘蛛《くも》のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉《せみ》が捕《と》られることから考えると、蚊帳《かや》一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。
子供の時分にとんぼを捕るのに、細い糸の両端に豌豆《えんどう》大の小石を結び、それをひょいと空中へ投げ上げると、とんぼはその小石をたぶん餌《えさ》だと思って追っかけて来る。すると糸がうまいぐあいに虫のからだに巻きついて、そうして石の重みで落下して来る。あれも参考になりそうである。つまりピアノ線の両端に錘《おもり》をつけたようなものをやたらと空中へ打ち上げれば襲撃飛行機隊は多少の迷惑を感じそうな気がする。少なくも爆弾よりも安価でしかもかえって有効かもしれない。
戦争のないうちはわれわれは文明人であるが戦争が始まると、たちまちにしてわれわれは野蛮人になり、獣になり鳥になり魚になりまた昆虫《こんちゅう》になるのである。機械文明が発達するほどい
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