鳴を上げてこわがるので、むすこ思いの父親はその次の年から断然夕顔の栽培を中止したという実例があるくらいである。この花嫁は実際夕顔の花のような感じのする女であったが、それからわずかに数年の後なくなった。この花嫁の花婿であったところの老学者の記憶には夕顔の花と蛾とにまつわる美しくも悲しい夢幻の世界が残っている。そう言って彼は私にささやくのである。私には彼女がむしろからすうりの花のようにはかない存在であったように思われるのである。
大きな蛾の複眼に或《あ》る適当な角度で光を当てて見ると気味の悪いように赤い、燐光《りんこう》に類した光を発するのがある。なんとなく物すごい感じのするものである。昔西洋の雑誌小説で蛾のお化けの出るのを読んだことがあるが、この目玉の光には実際多少の妖怪味《ようかいみ》といったようなものを帯びている。つまり、なんとなく非現実的な色と光があるのである。これはたぶん複眼の多数のレンズの作用でちょうど光《ひか》り苔《ごけ》の場合と同じような反射をするせいと思われる。
蛾《が》の襲撃で困った時には宅《うち》の猫《ねこ》を連れて来ると、すぐに始末が着く。二匹いるうちの黄色いほうのやせっぽちの男猫が、他にはなんの能もない代わりに蛾をつかまえることだけに妙を得ている。飛び上がったと思うと、もう一ぺんにはたき落とす。それからさんざんおもちゃにしたあげくに、空腹だとむしゃむしゃと食ってしまうのである。猫の神経の働きの速さとねらいの正確さにはわれわれ人間は到底かなわない。猫が見たら人間のテニスやベースボールはさだめてまだるっこくて滑稽《こっけい》なものだろうという気がするのである。それで、かりに猫の十分の一秒が人間の一秒に相当すると、ねこの寿命が八年ならば人間にとっては八十年に相当する勘定になる。どちらが長生きだかちょっとわからない。
これは書物で読んだことだが、樫鳥《かしどり》や山鳩《やまばと》や山鴫《やましぎ》のような鳥類が目にも止まらぬような急速度で錯雑した樹枝の間を縫うて飛んで行くのに、決して一枚の木の葉にも翼を触れるような事はない、これは鳥の目の調節の速さと、その視覚に応じて反射的に行なわれる羽翼の筋肉の機制の敏活を物語るものである。もしわれわれ人間にこの半分の能力があれば、銀座の四つ角《かど》で自動車電車の行き違う間を、巡査やシグナルの助けを借りずとも自由自在に通過することができるにちがいない。しかし人間にはシグナルがあり法律があり道徳があるために鳥獣の敏活さがなくても安心して生きて行かれる。そのためにわれわれはだんだんに鈍になり気長くなってしまったのであろう。
しかし鳥獣をうらやんだ原始人の三つ子の心はいつまでも生き延びて現代の文明人の社会にも活動している。蛾をはたき落とす猫をうらやみ賛嘆する心がベースボールのホームランヒットに喝采《かっさい》を送る。一片の麩《ふ》を争う池の鯉《こい》の跳躍への憧憬《どうけい》がラグビー戦の観客を吸い寄せる原動力となるであろう。オリンピック競技では馬やかもしかや魚の妙技に肉薄しようという世界じゅうの人間の努力の成果が展開されているのであろう。
機械的文明の発達は人間のこうした欲望の炎にガソリン油を注いだ。そのガソリンは、モーターに超高速度を与えて、自動車を走らせ、飛行機を飛ばせる。太平の夢はこれらのエンジンの騒音に攪乱《かくらん》されてしまったのである。
交通規則や国際間の盟約が履行されている間はまだまだ安心であろうが、そういうものが頼みにならない日がいつなんどき来るかもしれない。その日が来るとこれらの機械的鳥獣の自由な活動が始まるであろう。
「太平洋爆撃隊」という映画がたいへんな人気を呼んだ。映画というものは、なんでも、われわれがしたくてたまらないが実際はなかなか容易にできないと思うような事をやって見せれば大衆の喝采を博するのだそうである。なるほどこの映画にもそういうところがある。いちばんおもしろいのは、三|艘《ぞう》の大飛行船が船首を並べて断雲の間を飛行している、その上空に追い迫った一隊の爆撃機が急速なダイヴィングで小石のごとく落下して来て、飛行船の横腹と横腹との間の狭い空間を電光のごとくかすめては滝壺《たきつぼ》のつばめのごとく舞い上がる光景である。それがただ一艘ならばまだしも、数えきれぬほどたくさんの飛行機が、あとからもあとからも飛びきたり飛び去るのである。この光景の映写の間にこれと相《あい》錯綜《さくそう》して、それらの爆撃機自身に固定されたカメラから撮影された四辺の目まぐるしい光景が映出されるのである。この映画によってわれわれの祖先が数万年の間うらやみつづけにうらやんで来た望みが遂げられたのである。われわれは、この映画を見ることによって、われわれ自身が森の樹間
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