みふけっている。おそらく「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」らしい。もう一度ああいう年ごろになってみたいといったような気もするのであった。
 園内の渓谷《けいこく》に渡した釣《つ》り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿《ゆかたすがた》の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」らしい。絵日傘《えひがさ》をさした田舎《いなか》くさいドイツ人夫婦が恐ろしくおおぜいの子供をつれて谷を見おろしていた。
 動物園がある。熊《くま》にせんべいを買って口の中へ投げ込んでやる。口をいっぱいにあいて下へ落ちたせんべいのありうる可能性などは考えないで悠然《ゆうぜん》として次のを待っている姿は罪のないものである。自分らと並んで見物していた信州《しんしゅう》人らしいおじさんが連れの男にこの熊は「人格」が高いとかなんとかいうような話をしていた。熊の人格も珍しい。
 猿《さる》の檻《おり》はどこの国でもいちばん人気がある。中に一匹腰が抜けて足の立たないのがいて、他の仲間のような活動を断念してたいていいつも小屋の屋根の上でごろごろしている。それがどうかして時おり移動したくなるとひょいと逆立《さかだ》ちをして麻痺《まひ》した腰とあと足を空中高くさし上げてそうして前足で自由に歩いて行く。さすがに猿だけのことはあるのであるが、とにかくこれもオリジナルである。
 吸っていた巻き煙草《たばこ》の吸いがらを檻の前に捨てたら、そこにしゃがんで見物していた土地の人らしいじいさんが、そのまだ火のついているままの吸いがらをいきなり檻の中へ投げ込んだ。すると、地べたにすわっていた親猿が心得顔に手を出して、手のひらを広げたままで吸いがらを地面にこすりつけて器用にその火をもみ消してしまった。そうしてその燃えがらをつまみ上げ、子細らしい手つきで巻き紙を引きやぶって中味の煙草を引き出したと思うといきなりそれを口中へ運んだ。まさかと思ったがやはりその煙草を味わっているのである。別にうまそうでもないが、しかしまたあわてて吐き出すのでもなく、平然ときわめてあたりまえなような様子をしてすましているのであった。これも実に珍しい見ものであった。ここの猿はおそらくもうよほど前からこうした「吸いがら教育」を受けているのであろうと想像された。
 絶壁の幕のかなたに八月の日光に照らされた千曲川《ちくまがわ》沿岸の平野を見おろした景色には特有な美しさがある。「せみ鳴くや松のこずえに千曲川。」こんな句がひとりでにできた。
 帰りに沓掛《くつかけ》の駅でおりて星野《ほしの》行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してまもなく横合いからはげしく何物かが衝突したと思うと同時に車体が傾いて危うく倒れそうになって止まった。西洋人のおおぜい乗った自用車らしいのが十字路を横から飛び出してわれわれのバスの後部にぶつかったのであった。この西洋人の車は一方の泥《どろ》よけがつぶれただけですみ、われわれのバスは横腹が少しへこんでペイントがはがれただけで助かった。肥《ふと》った赤ら顔の快活そうな老西洋人が一人おり立って、曲がった泥よけをどうにか引き曲げて直した後に、片手を高くさしあげてわれわれをさしまねきながら大声で「ドモスミマシェン」と言って嫣然《えんぜん》一笑した。そうして再びエンジンの爆音を立てて威勢よく軽井沢《かるいざわ》のほうへ走り去ったのであった。

 九月初旬三度目に行ったときには宿の池にやっと二三羽の鶺鴒《せきれい》が見られた。去年のような大群はもう来ないらしい。ことしはあひるのコロニーが優勢になって鶺鴒の領域《テリトリー》を侵略してしまったのではないかと思われる。同じような現象がたとえば軽井沢のような土地に週期的にやって来る渡り鳥のような避暑客の人間の種類についても見られるかどうか。材料が手に入るなら調べてみたいものである。
[#地から3字上げ](昭和九年十二月、文学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1993(平成5)年10月15日第61刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
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