厳守せられているかのように見えていた。ところがある日その神聖な規律を根底から破棄するような椿事《ちんじ》の起こったのを偶然な機会で目撃することができた。いつものように夫婦仲よく並んで泳いでいたひとつがいの雄鳥のほうが、実にはなはだ突然にけたたましい羽音を立てて水面を走り出したと思うとやがて水中に全身を没してもぐり込んだ。そうしてまっしぐらに水中をおそらく三メートル以上も突進して行って、静かに浮かんでいる白の親鳥のそばに浮き上がったかと思うと、いきなりその首筋に食いついて、この弱々しい小柄の母鳥のからだを水中に押し沈めた。驚いて見ていると、この暴君はまもなくこの哀れな俘虜《ふりょ》を釈放して、そうしてあたかも何事も起こらなかったように悠々《ゆうゆう》とその固有の雌鳥の一メートル以内の領域に泳ぎついて行った。善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静な態度でこの不倫の夫を迎えたのであった。一方ではまた、突然の暴行の後に釈放された白い母鳥も、ほんのちょっとばかり取り乱した羽毛をくちばしでかいつくろって、心ばかりの身じまいをしただけで、もう何事もなかったように、これも瞬間の驚きから回復したらしい十羽のひなを引率してしずしずと池の反対の側へ泳いで行くのであった。離婚問題も慰藉料《いしゃりょう》問題も鳥の世界には起こり得ないのである。
 自分の到着前には雄が二羽いたそうである。その中の一羽がむやみに暴戻《ぼうれい》で他の一羽を虐待する。そのたびに今もいる鴨羽《かもは》の雌《めす》は人間で言わば仲を取りなし顔とでもいったような様子でそば近く寄って行って、いつもとは少しちがった特殊な低い鳴き声を発していたそうであったが、そのうちにある日突然その暴君の雄鳥の姿が池では見られなくなったそうである。たぶん宿の廚《くりや》の料理人が引致して連れて行ったものらしく、ともかくもちょうどその晩宿の本館は一団の軍人客でたいそうにぎやかであったそうである。そうしてそのときに池に残された弱虫のほうの雄が、今ではこの池の王者となり暴君となりドンファンとなっているのである。
 七月末に一度帰京してちょうど二週間たって再び行って見て驚いたのはあひるのひなの生長の早いことであった。あの黄色いうぶ毛はいつのまにか消えうせて、もうそろそろ一人前の鴨羽に近い色彩の発現が見える。小さなブーメラング形の翼の胚芽《はいが》の代わりにもう日本語で羽根と名のつけられる程度のものが発生している。しかしまだ雌雄の区別が素人目《しろうとめ》にはどうも判然としない。よく見るとしっぽに近い背面の羽色に濃い黒みがかった縞《しま》の見えるのが雄らしく思われるだけである。あひるの場合でもやはりいわゆる年ごろにならないと、雌雄の差による内分泌の分化が起こらないために、その性的差別に相当する外貌上《がいぼうじょう》の区別が判然と分化しないものと見える。それだのに体量だけはわずかの間に莫大《ばくだい》な増加を見せて、今では白の母鳥のほうがかえってひなの中の大柄なのよりはずっと小さく見えるくらいであった。一方で例のドンファンの雄鳥はと見るとなんとなく羽色がやつれたようで、首のまわりのあの美しい黒い輪も所まだらにはげちょろけているのであった。なんだか急に年を取ったように見える。こうした変化がたった二週間ばかりの間に起こったのである。浦島《うらしま》の物語の小さなひな形のようなものかもしれない。
 植物の世界にも去年と比べて著しく相違が見えた。何よりもことしは時候が著しくおくれているらしく思われた。たとえば去年は八月半ばにたくさん咲いていた釣舟草《つりふねそう》がことしの同じころにはいくらも見つからなかった。そうして九月上旬にもう一度行ったときに、温泉前の渓流《けいりゅう》の向こう側の林間軌道を歩いていたらそこの道ばたにこの花がたくさん咲き乱れているのを発見した。

 星野《ほしの》滞在中に一日|小諸城趾《こもろじょうし》を見物に行った。城の大手門を見込んでちょっとした坂を下って行くのであるが、こうした地形に拠《よ》った城は存外珍しいのではないかと思う。
 藤村庵《とうそんあん》というのがあって、そこには藤村氏の筆跡が壁に掛け並べてあったり、藤村文献目録なども備えてある。現に生きて活動している文人にゆかりのある家をこういうふうにしてあたかも古人の遺跡のように仕立ててあるのもやはりちょっと珍しいような気がする。
 天守台跡に上っているとどこかでからすの鳴いているのが「アベバ、アベバ」と聞こえる。こういうからすの声もめったに聞いたことがないような気がした。石崖《いしがけ》の上の端近く、一高の学生が一人あぐらをかいて上着を頭からすっぽりかぶって暑い日ざしをよけながら岩波文庫らしいものを読
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