やっぱり何かしらひと花咲かせてみないと充分にその存在がはっきりしない、あれと同じだというような気がするのである。
去年の七月にはあんなにたくさんに池のまわりに遊んでいた鶺鴒《せきれい》がことしの七月はさっぱり見えない。そのかわりに去年はたった一匹しかいなかったあひるがことしは十三羽に増殖している。鴨《かも》のような羽色をしたひとつがいのほかに、純白の雌《めす》が一羽、それからその「白」の孵化《ふか》したひなが十羽である。ひなは七月に行った時はまだ黄色い綿で作ったおもちゃのような格好で、羽根などもほんの琴の爪《つめ》ぐらいの大きさの、言わば形ばかりのものであった。それでも時々延び上がって一人前らしく羽ばたきのまね事をするのが妙であった。麦笛を吹くような声でピーピーと鳴き立ててはベランダの前へ寄って来て、飯の余りやせんべいの欠けらをねだるのである。それからまた池にはいったと思うとせわしなく水中にもぐり込んでは底の泥《どろ》をくちばしでせせり歩く。その水中を泳ぐ格好がなかなか滑稽《こっけい》で愛敬《あいきょう》があり到底水上では見られぬ異形の小妖精《しょうようせい》の姿である。鳥の先祖は爬虫《はちゅう》だそうであるが、なるほどどこか鰐《わに》などの水中を泳ぐ姿に似たところがあるようである。もっとも親鳥がこんな格好をして水中を泳ぎ回ることは、かつて見たことがない。この点ではかえって子供のほうが親よりも多芸であり有能であるとも言われる。親鳥だと、単にちょっと逆立《さかだ》ちをしてしっぽを天に朝《ちょう》しさえすればくちばしが自然に池底に届くのであるが、ひな鳥はこうして全身を没してもぐらないと目的を達しないから、その自然の要求からこうした芸当をするのであろうが、それにしても、水中にもぐっている時間を測ってみるとやはりひな鳥のほうが著しく長い、大概七秒か八秒ほどの間もぐって水底を泳ぎ回っているのに、親鳥のほうはせいぜい三四秒ぐらいでもう頭を上げる。これはたしかにひなと親鳥とではその生理的機能にそれだけの差があることを意味するのではないかと思われる。
鴨羽《かもは》の雌雄夫婦はおしどり式にいつも互いに一メートル以内ぐらいの間隔を保って遊弋《ゆうよく》している。一方ではまた白の母鳥と十羽のひなとが別の一群を形づくって移動している。そうしてこの二群の間には常に若干の「尊敬の間隔」が
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